〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/22 (土) にょ いん の お ん はだ (二)

みかどは、お寝相がわるい。
よく遊び、よく暴れた日ほど、夜のおん寝姿は、他愛がない。
ときどき、夜具よのもの御衣ぎょい いでしまう。御枕もどこへやら転々と身うごきなされる。
けれど、どんなp格好になっても、ふさふさとした童髪は、おん母の真白いふところの奥へ、深々と埋めこんでい、そのおおつむり の位置だけは決して変わることはない。
さらぬだに、女院は何度それに眼をさまされては、みかどの上へ夜具よのもの を掛け直してあげることかしれなかった。
── が、こよいに限って、みかども、じっとおやす みだった。女院もまた、昼のお疲れやら、まずここにねぐら を得たと思う安堵あんど やらで、ぐっすりされたようだった。それから、やがて、夜半ごろであった。
── 後に思えば、虫の知らせであったろうか。
なんとなく、胸ぐるしくて、女院はふと、眼をさました。うつつなく、どこかの掛樋かけひ の水音が耳につく。そのうちに、 「・・・・おや?」 と、みかどのお体がいつになく熱っぽいのに気づいたのである。
深いおん寝息はみえるが、息づかいが、いつもと違う。額に手をあててみると、火のようである。女院はすぐ典侍を呼ぼうとされたが、よくある智恵熱というものか、あした には、けろりとしていらっしゃるような例も、これまでにままあった。
「みなも、疲れていように・・・・」
女院は起きて、手筥てばこ の底の薬をさがした。みかどにそれをお ませするため、廊を渡って、自身、掛樋かけひ の水を、うつわ へ汲みに行ったのだった。
すると、掛樋のゆか の竹窓越から、つぼ (庭) 向うの一室へふと眼をひかれた。灯影の揺れと、人の気配がしたからである。
ひとりは乳人めのと の帥ノ局、ひとりは、彼女の良人おっと 、平大納言時忠に違いなかった。でも、たまたまの逢う瀬をたのしむとうな年でもない。老夫婦といえるに近い二人である。おそsらく、人びとの寝しずまった後で、主上のお行く末のこととか、お互いの覚悟とか、平家の運命を見とおしている時忠が、妻の典侍に何事かを言い含めてでもいたのではあるまいか。
二人の影は、そこの一室を出て来ると、左右の廊へ、黙って、別れて行った。
「・・・・・・」
もとより女院は、たいあいてお気にもとめなかった。
寸時も、心はみかどから離れられない。こうしている間も、みかどが、おん眼をさまして、そばの見えない自分の姿に泣いていらっしゃるのではないか ── などと思われて。
器の水を両手にささげ、女院は心もそぞろに、廊を戻って来た。そして、寝所の妻戸つまど を入ろうとした時だった。彼女の姿を見かけたそつつぼね が、何事かと、驚いたように、
「どうか遊ばしましたか。まだ夜も明けておりませぬのに」
と、ともに、 の内へ入って来た。
「オオ局か。見て も、みかどが、すこしお熱のようにうかがわれるのです」
「えっ、お熱が」
そつつぼね には、幾人もの子を持った覚えがある。屋島には典医もいないので、何よりは、母親の体験を多く積んでいる帥ノ局のような人の意見や処置が、常々、何よりの力であった。
「たいして、お悪い御気色みけしき とはうかがえませぬ。かろい御風気ごふうき ではございますまいか」
「では、いつも差し上げるこの唐薬とうやく でも」
「およろしゅうございましょう。昼の間、暴風雨あらし のあとの濁り水に、夢中でお戯れでしたから、すこしお冷えになったのかもしれません」
おん母は、みかどを、ひざへお抱きして、そつつぼね とともに、寝ぼけまなこのおくち へ、しきりに薬をおすすめした。
── その時、だ、だ、だ、だっと、たれかが、遠くの廊を駆けて通った。が、それきりなんの物音もせず、ここへたれの来る様子もない。
みかどは、さんざんに、おん母たちを手こずらせた。お首を振っては、
「いや!いや!」
とのみ烈しくこば むので、女院も局も、そのお力には、負けてしまい、しばらくは、薬を措いて、ご機嫌を取っているしかなかった。
── と、ふたたび、前にも増した跫音あしおと につれ、何かわめ くらしい口々の声もして、にわかに、陣中が異様な騒ぎにわき返った。
そのせいか、または、お熱のため何か幻影でも見られたものか、みかどは突然、
「こわいっ。・・・・こわ いっ」
と、悲鳴に似たお声を上げて、続いて、わあんっ ── と声かぎり泣き叫ばれた。
しかも、すぐ外の妻戸の口では、
「── 女院さま、大変でございまする。女院さま、女院さま」
と、何事か、内へ告げる女房たちの声が、これも泣かんばかりであったが、みかどに気をとられてか、なかなか内の御返辞もない。
そのあいだに。
あちこちの から、大納言ノ典侍、ろう御方おんかた治部卿じぶきょうつぼねきた政所まんどころ 、その侍女やら、ほかの小女房たちなども、わらわらとここの妻戸の口一つに集まって来て、時ならぬ旋風つむじ に吹き寄せられた花屑はなくず のように、おののきおののき、なお、奥へ向かって告げぬいた。
「女院さま、女院さま。源氏が せて来ましたそうな」
「── どうしたことか分かりませぬが、志度しど の方から」
「はや、源氏勢の攻め声たら、たくさんな火のかず も、遠くのやみに」
「そして、こなたへ、近づいてまいりますとか」
「経盛どのも、仰天あそばし、武者どもも、一人残らず、物具もののぐ よろうて、お陣屋から駆け出して行きました」
「みかどにも、女院さまにも、はや、お身じたく遊ばしませ。もう・・・・ゆめ、ただ事ではございませぬぞえ」
── それは、時刻からみても、ちょうど、丹生にぶ の追分で、南北ふたてに別れた義経軍の、どっちか一隊が、もう、そろそろ屋島附近へ迫って来る時分。
けさは、まさに二月二十日。
が、まだ明けきらない空に、白々と無慈悲な顔した残月があった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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