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建礼門院 は、なおずっと遅れて、たそがれ近いころ、女房輿で、これへ登って来られた。 おん母の姿を見ると、みかどは、さすが、おとなしくなられる。というよりも、にわかに、まつわりついて、嬰児えいじ
のように、甘え抜かれるのであった。 「いけません、そのようなこと遊ばしては」 女院は、みかどの小さい御手が、襟がさねの間から、偸ぬす
むように乳の肌へ忍び込もうとするのを、ひざに抑えて、そのお体ぐみ、しかと、五衣いつつぎぬ
の御袖の中へ抱え込まれた。 「もう、この春から、みかどは、お八ツにおなり遊ばしたのでございましょう。あれ、みなが笑うています。さ、お行儀ようなさいませ。みなして、おもしろい夜物語などいたしましょう」 「いや」 みかどは、うない髪を、きつく振って、 「供御くご
は、まだなの、まろ、お腹なか
がへった」 「ホホホホ。ごむりもない、やがてほどのう差し上げまする」 「ここは、どこ。おん母」 「しばしの仮の御所でございます。こよいからは、この屋に御寝ぎょし
なされませや」 「おん母も、尼のばば君も、八島は仮の御所と、いつも仰っしゃっているこせに。・・・・あそこも仮、ここも仮なの」 「ここも屋島の内ですから」 「いつ帰るの、都とやらへ」 「そのうちに・・・・」 「そのうちにって?」 「春が過ぎ、夏が来て、やがて次の春が参りましょうほどに」 「いくつ寝たら次の春?」 たれとはなく、すすり泣きを忍ばせた。 「おん母子ぼし
の、こうしたお戯れは、常々のことで、今さら、涙をそそられるでもないが。こよいに限っては、女房たちから侍側の人びとまで、特に、うら寂しい感傷にとらわれていたのである。 玉座といっても、陣屋の素莚すむしろ
、燭しょく は臭くさ
い魚油の油煙を立て、一張ひとは
りの几帳きちょう だにあるわけではない。 この間じゅうからの暴風雨あらし
が、どんな威力であったにせよ、もしこれが都のことならばと、つい、過ぎた栄花の日なども思い出される。そして、そうした御比較を持たないみかどよりも、女院のお胸こそ、思いやられ、おん母にして、まだ二十九のお若い美しさが、よけいに、このほの暗い陣屋の中では、眼に沁し
みて見えたのだった。 「あちらの夜の御殿みどの
に、供御くご のおしたくができました。暗うございますゆえ、局が、お手をひいてさしあげましょう。さあ、こうおいで遊ばしませ」 帥の局が、迎えに来た。──
この局は、時忠の妻だった。 彼女は、みかどにお乳を上げてきた乳人めのと
でもあった。だから、おん母の次に、みかどは、帥そつ
ノ局つぼね にはよく親しんでいらっしゃる。 けれど、都も不安になってからは、乳人の肌にも寄りつかず、みかどは、庶民の子のように、夜ごと、おん母の肌に寄り添わねばお眠りにならなかった。女院もまた、自然、そうしたかったものであろう。都落ちの後は、なおさらだった。夜々の肌はだ
の香癖かぐせ も一倍になって、お八ツの春となっても、まだ、乳の香を忘れ得ないみかどであった。 女院は、みかどが、帥そつ
ノ局つぼね やほかの典侍たちと、賑にぎ
やかに、夜の膳部ぜんぶ に時を忘れている間に、あてがわれた御自身の一室へそっと通って、 「あるじの小机か、冠棚かむりだな
など借りうけて給わらぬか」 と、そばにいた治部卿じぶきょう
ノ局つぼね へ言った。 やがて、女院は、こればかりはと、みずから手筥てばこ
に納めて来た二品のかたみを、さっそく、机の上に浄きよ
め乗せて、位牌いはい へするように掌を合わせた。 ひとつは、彼女の良人つま
良人つま たりし高倉天皇が常々使っておられた笄こうがい
であり、もう一つは、亡父ちち
、太政入道だじょうにゅうどう
清盛きよもり の小硯こすずり
であった。 生まれながら、西八条の宝財にかこまれ、嫁とつ
いでは、時の高倉天皇に侍じ して、九重の宮にお妃きさき
として並び立ち、そのお似合いな夫婦仲みよとなか
は、上下の羨望せんぼう の的であった彼女にも、今は、その二ツの物しか、身に残されてはいなかった。
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