〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/22 (土) にょ いん の お ん はだ (一)

── 建礼門院けんれいもんいん は、なおずっと遅れて、たそがれ近いころ、女房輿で、これへ登って来られた。
おん母の姿を見ると、みかどは、さすが、おとなしくなられる。というよりも、にわかに、まつわりついて、嬰児えいじ のように、甘え抜かれるのであった。
「いけません、そのようなこと遊ばしては」
女院は、みかどの小さい御手が、襟がさねの間から、ぬす むように乳の肌へ忍び込もうとするのを、ひざに抑えて、そのお体ぐみ、しかと、五衣いつつぎぬ の御袖の中へ抱え込まれた。
「もう、この春から、みかどは、お八ツにおなり遊ばしたのでございましょう。あれ、みなが笑うています。さ、お行儀ようなさいませ。みなして、おもしろい夜物語などいたしましょう」
「いや」
みかどは、うない髪を、きつく振って、
供御くご は、まだなの、まろ、おなか がへった」
「ホホホホ。ごむりもない、やがてほどのう差し上げまする」
「ここは、どこ。おん母」
「しばしの仮の御所でございます。こよいからは、この屋に御寝ぎょし なされませや」
「おん母も、尼のばば君も、八島は仮の御所と、いつも仰っしゃっているこせに。・・・・あそこも仮、ここも仮なの」
「ここも屋島の内ですから」
「いつ帰るの、都とやらへ」
「そのうちに・・・・」
「そのうちにって?」
「春が過ぎ、夏が来て、やがて次の春が参りましょうほどに」
「いくつ寝たら次の春?」
たれとはなく、すすり泣きを忍ばせた。
「おん母子ぼし の、こうしたお戯れは、常々のことで、今さら、涙をそそられるでもないが。こよいに限っては、女房たちから侍側の人びとまで、特に、うら寂しい感傷にとらわれていたのである。
玉座といっても、陣屋の素莚すむしろしょくくさ い魚油の油煙を立て、一張ひとは りの几帳きちょう だにあるわけではない。
この間じゅうからの暴風雨あらし が、どんな威力であったにせよ、もしこれが都のことならばと、つい、過ぎた栄花の日なども思い出される。そして、そうした御比較を持たないみかどよりも、女院のお胸こそ、思いやられ、おん母にして、まだ二十九のお若い美しさが、よけいに、このほの暗い陣屋の中では、眼に みて見えたのだった。
「あちらの夜の御殿みどの に、供御くご のおしたくができました。暗うございますゆえ、局が、お手をひいてさしあげましょう。さあ、こうおいで遊ばしませ」
帥の局が、迎えに来た。── この局は、時忠の妻だった。
彼女は、みかどにお乳を上げてきた乳人めのと でもあった。だから、おん母の次に、みかどは、そつつぼね にはよく親しんでいらっしゃる。
けれど、都も不安になってからは、乳人の肌にも寄りつかず、みかどは、庶民の子のように、夜ごと、おん母の肌に寄り添わねばお眠りにならなかった。女院もまた、自然、そうしたかったものであろう。都落ちの後は、なおさらだった。夜々のはだ香癖かぐせ も一倍になって、お八ツの春となっても、まだ、乳の香を忘れ得ないみかどであった。
女院は、みかどが、そつつぼね やほかの典侍たちと、にぎ やかに、夜の膳部ぜんぶ に時を忘れている間に、あてがわれた御自身の一室へそっと通って、
「あるじの小机か、冠棚かむりだな など借りうけて給わらぬか」
と、そばにいた治部卿じぶきょうつぼね へ言った。
やがて、女院は、こればかりはと、みずから手筥てばこ に納めて来た二品のかたみを、さっそく、机の上にきよ め乗せて、位牌いはい へするように掌を合わせた。
ひとつは、彼女の良人つま 良人つま たりし高倉天皇が常々使っておられたこうがい であり、もう一つは、亡父ちち太政入道だじょうにゅうどう 清盛きよもり小硯こすずり であった。
生まれながら、西八条の宝財にかこまれ、とつ いでは、時の高倉天皇に して、九重の宮におきさき として並び立ち、そのお似合いな夫婦仲みよとなか は、上下の羨望せんぼう の的であった彼女にも、今は、その二ツの物しか、身に残されてはいなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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