〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/20 (木) て ん ぐ る ま (二)

「オオ。渡らせられたような」
二人はともに、庭上へ出 ──
「山坂も大雨のあと、おん輿こし もさぞ御難儀を」
と、あわててお出迎えに立った。
やがてのこと。侍従の少将有盛やら、衛門えもん の武者、お学問所の師僧、小女房たちの、たくさんな供奉ぐぶ の群れが、木戸の外に、むらがり見えた。
── けれど、輿は空輿からごし で、地へすえおかれ、みかどのお姿は、そこらにない。
「はて?」
時忠も経盛も、ふと、いぶかり顔していると、すぐ後ろから、何にはしゃいでおいでなのか、きゃっきゃっと、笑い興じる幼帝のお声がして来た。
見ると、御庭守おにわもり の大将、伊賀平内いがのへいない 左衛門さえもん 家長いえなが という大兵な侍が、みかどを、肩ぐるまに乗せ、みかどは、平内左衛門の首の根をおんまたぐらにはさんで、彼の眉の辺に、小さい両の手をまわして見えられた。
「やあい、── てんぐるまよ、てんぐるまよ、輿より高いぞ、てんぐるまは」
みかどは、その上で、躍り躍り、
「── 馬より遅いは、どうしてぞ。このてんぐるまは、蝸牛でんでむし かや」
わざと、おん手を離したり、また、平内左衛門の顔につかまって、ピシャピシャたたいてみたり、ひところの、ひ弱げな御容子は失せ、山御所の一年余で、お丈夫になったのは確かだが、腕白ぶりは、里童さとわらべ にも負けないお悪戯いた ざかりのようであった。
「あっ、陛下陛下。・・・・それでは、家長めも、めしい 同様、歩くことがなりませぬ。・・・・眼の上の御手みて を離し給わりませ。平内左衛門、立ち往生いたしまする」
「いいよ、平内」
みかどは、なお、喜々と笑って、
「お眼々めめ は、まろが持っている。歩んでみい、さあ歩め、蝸牛、蝸牛」
と、困らすのだった。
きっと、こんな道草を、山路の途中で、さんざんやって来たのであろう。扈従こじゅう の讃岐中将時実や内蔵頭くらのかみ 信基のぶもと なども、手のつけられない顔をしていた。
── と。陣屋の木戸の、ついそこまで来たとき、
「・・・・あっ、あぶないっ」
と、女房たちやら、こっちで整列していた武者も、いっしょになって、みかどの側へ駆け寄った。
何かに、つなづいたらしく、大兵な平内左衛門も、よろめいたはず みに、みかどのお体を、あやうくほうり出してしまうところだった。
みかどは、大勢の手の中へ、仰向けにすく い取られたのが、たまらない快感であったとみえて、
「まいちど、てんぐるましたい。平内、まいちど、まいちど」
と、絶叫あそばした。
「・・・・・・」
お迎えにおく り立っていた時忠と経盛は、顔見合わせて。思わず暗涙に暮れた。
一門都落ちの日から、もう三年、白珠しらたま のままなみかどを擁して、ある時は浪間にちゃだよい、野山に し、またある時は、敵の雄叫びや矢風に追われ、がんぜない帝を武者に負わせて、狩らるるしし の如く逃げ迷ったりした時もある。
自然、供御くご の物も野性、四囲の朝夕も波の声やら山のこだま ばかりであった。童心に、選択はない。鳥獣とりけもの とも れやすく、お学問所の素読そどく の師より、典侍てんじ らの、みやびな風よりも、その感化を、土からうける。
いかに、周囲の人びとが、高貴ならんことをねが って、万乗の大君、十善の天子たるべく守り育てようと努めても、沢山たくさん の中におかれたみかどが、その御成長に山沢の気を多分に持ってしまわれたのは、どうにも、自然な成り行きだった。
まして、明け暮れ、やじり ぎ、やいば をしらべ、敵を殺し尽くすか、一門殺し尽くされるか、あだ とは、とも に天をいただかじと、一念 り固まっている屋島の陣の中である。
「・・・・ああ、大人どもの罪だ。みかどの粗暴を、おしかりする資格など、たれにもない。・・・・あのまま、漁夫の子か、山賤やまがつ の子にでもなれるならば、みかど御自身も、さぞ、お倖なことであろうに」
なお暗然と、あきれ顔に、かなたを見とれている経盛のにぶい へ、時忠は、そっと小声でささやいた。そのささやきに中にも、さきにもらした彼の願いと意図が められていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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