〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/20 (木) て ん ぐ る ま (一)

ここを陛下のお居間に ── と見立てて掃き清めさせた広間に、二人は仮にすわりこんで、おん輿こし を待っていた。
が、供奉ぐぶ の先ぶれは、なかなか見えない。
経盛がしきりと、案じ顔に、
「遅いのう、どうか召されたのか」
と、かこ つのを、
「いや、遅いのは、いずれ典侍や小女房たちのせいでおざろう。かかる中にも、今朝から、やれ衣裳を濡らしたとか、化粧のしろ が見えぬとか、嘆きは大概おおむね そのようなことでしかない」
と、時忠の方は、笑っていた。
そしてふと、 「── この人ならば」 と、経盛を見込んで、何か、胸の底のものを、今のうちに、話しておきたいと念じるらしく、
「のう、修理どの、おたがいは、覚悟の身、いつ思い捨てようと、惜しみもしないが、しかし、みかどのおん行く末については、万一のことをも、考えておかねばなりましまい。その辺、御老台には、どう御分別なされまするな」
と、声を沈めた。
分別 ── という語は、一門が誓っているものとは、およそ遠くて、異端的な言葉である。
だから、経盛は、その語が持つ容易ならぬ意味に、ぎょっとした。── が、決して、時忠をいやしんだり、その腹を探るような風ではなかった。
「さ・・・・げにも、そここそ大事ではあるが、分別と申されると、さて、よい分別も にはない。お憂いはよく分かる。万一ではない、いつかはと、同じ憂いを、経盛も抱いてはおるものの」
「その儀、うかとは、口にも出せぬ。わけて内大臣おおい殿との の前では、和議のわの字も申されぬ。若い教経のりつね知盛とももり一途いちず な侍大将などには、なおさらのこと。・・・・というて、みすみす幼帝の御運命を、このまま、われらとともに い奉るむご さに忍びえましょうや」
「・・・・・・・」
「ああ。・・・・臆面おくめん もなく、あなただけには、こうは申すものの、思えば、御子息三人までを、あえなく戦場で くされた経盛どのではあった。さだめし、源氏へお恨みは深かろう。その源氏に、和を乞うなど、心外なと、はらわた をかきむしられておられることでおわそうがの」
「いやいや、それはわが家の不運。今もって、悲しさ、口惜しさ、あきらめきれぬには違いないが、あくまで、一個の孤父こふ の無念にすぎぬ。むしろ、伜どもの死が、復讐ふくしゅう の念など大きく超えて、何がな意味のある死にがいともなれば、むしろ倖せ。かえって、孤父こふ のこの思いも救われよう」
「では、万一の場合、この時忠が、みかどの玉体を隠し奉って、院へ、お命乞いを仰ぐようなことが起こっての、御老台には、この時忠をお恨みなさいませぬか」
うら むまい」
── 経盛は、じっと、まつ毛をひさいで、
「なんで怨もう。もし、幼帝のおん行く末だに、よろしければ」
「それと、おん母の女院 (建礼門院) とだけは、なんとかして、修羅しゅら なき園へ、おうつ しまいらせておきたいと思う。そのためには、一門すべての者から、そう憎み怨まれても、時忠、歯牙しが にはかけませぬ。・・・・が、ただお一人、あなただけには、時忠の真意を知っておいていただきたい」
「大理どの。・・・・よう打ち明けてくだされた。そこまでのお腹を」
「あなたなればと」
「か、かたじけない」
経盛は、時忠の手をにぎりしめた。とっしの手も、濡れていた。
ところへ、柵門さくもん の方で、にわかに、人騒ひとざわ めきが聞こえ、
「みかどがお成りです」
渡御とぎょ あらせられましたぞ」
と、触れわたる警蹕けいひつ の声もしていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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