〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/18 (火) 神 な ら ぬ 身 (三)

教経は、水軍の指揮を、得手えて としていた。
いま彦島にいる権中納言ごんちゅうなごん 知盛とももり とともに、船手の精鋭を引き連れては、瀬戸のいたる所に威をふるい、平家の水軍か水軍の平家かと、沿海の諸豪しょごう を、慴伏しょうふく ささた経験があるからである。
御所のすぐ対岸 ── 船隠しの浦を、兵船の寄せ場として、彼は、毎日のように、水夫かこ 楫取かんどり に、号令をかけていた。いざという日の操練そうれん のためにである。
判官ほうがん 義経よしつね 、梶原らが、院宣を振りかざして、渡辺ノ津に、船算段ふなさんだん をこらし、やがてこれへ せて来るとか、しきりに大言をしておるそうだが、ぢんな水軍を仕立てて来るか、来れば見ものだ」
船櫓ふなやぐら に突っ立った彼の姿が、海風の中で、大口あいて、わら っていた。
そして、あたりの将士へ、そこの半島の出口から北方の海を指さしつつ、
「── およそ。義経の水軍が、おそ うとせば、明石あかし から小豆島しょうどしま の東をよぎって来るしかない。その時、それを迎え撃つ調練なるぞ。源氏の船を、そこの水路に見たものとして、船陣ふなじん を立ててみよ、まわ してみよ」
と、説くのであった。
こうして、八栗、屋島の湾内では、万一に備える船手の将士の諸声もろごえ櫓音ろおと の聞こえぬ日はなかった。
また、陸上には、侍大将の越中次郎えっちゅうのじろう 兵衛盛嗣びょうえもりつぐ上総かずさの 忠光ただみつ飛騨四郎兵衛ひだのしろうびょうえ 景経かげつね 、悪七兵衛景清などが、組々の兵を擁して、木戸の守り、街道を偵察、御所の守護など、夜も昼も、怠りはない。。
それらの上にある内府宗盛らの首脳部も、
「つねに、この讃岐沖さぬきおき と、小豆島の東から南へかけての海上に心をつけよ」
と、敵の襲来は、その方角と見越して、まったく、それ以外は視界にないかのような方針によっていた。 「よこ─ ここを攻むるには、水軍によらねば、近づくことも出来ぬ」 という余りにも海面のたの みを重視しすぎた考えに、固着していたのである。
そして、ひそかに、
「田辺の湛増も、はや見えそうなもの」
と、心待ちにしていた。
それを問われると、さくらノ局は、
「わずかな船数ふなかず ではありません。おびただしい数の水軍、船出のお支度とて、たいへんでしょう。調ととの い次第、ほどなくお渡りまされましょう」
と、たれへ向かっても、そう誇らかに、答えるのが常だった。それは彼女自身も固く信じてい、つゆほども疑っている容子ようす はない。
── とかくするうち、二月十四、五日からの、あの大暴風雨が、突然、ここの屋島をも、吹き荒した。
摂津の淀や渡辺の地方でさえ、多くの兵船が、あれほどな損害に見舞われた。── ここ屋島の、ひどかったことは当然で、その惨害は、言語のぜつ する。
長上の屋島寺は、寺房の幾つかが、屋根を吹き飛ばされ、全山木々の葉は、粉になって散り、いた ましい折れ木の肌を見せたのや、根こそぎ吹き倒された巨木は、何本か数も知れない。
平軍の陣屋陣屋は、ひとしく皆、仮屋かりや 建てなので、あの大暴風の前には、ひとたまりもないはずだが、幸いな事には、陣屋や兵舎は、すべて、人目立たぬ岩陰とか、深い木立こだち の奥にわざと沈めて建ててあるものだった。内裏の造営も同様にしてあったので、屋根までは られなかったが、しかし、壁は抜かれ、床下は渓水たにみず となり、黒木くろき の柱は、傾いてしまうなど、みじめな三日三晩であった。
── ようやく、 が見え。風がおさまった十九日の朝は、
「それ、大屋根の修繕つくろ いを、まず急げ」
「お座所の壁も、雨漏りに洗われて、あとかたもないとか」
「いや、ひどいことだ。陣屋のさくくい も、どこへ流れ去ったやら ── 。道さえ、まるで河原と変じてしもうたわ」
「やれ、やれ無残、何もかもだ。── この始末、一体何から手をつけたらよいのか」
将士から局の女房たちまでも、その日、屋島中の男女は、すべておのおのの罹災りさい の跡に茫然ぼうぜん とし、そして、その後始末に暮れていたのである。
兵馬のこと、日ごろの備えなども、つい忘れ果てていたのも無理はない。その朝かしかて の物すら水びたしの有様で、主上の供御くご さえ、どうしようと、うろたえていたほどだった。
まして、たれが、想像もなしえたろうか。
その朝十九日、義経の百数十騎が阿波国の一端に、船を乗り捨てて、一路、阿讃あさん 国境のけん をさして、この屋島へ近づきつつあろうなどとは ──

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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