教経は、水軍の指揮を、得手
としていた。 いま彦島にいる権中納言ごんちゅうなごん
知盛とももり とともに、船手の精鋭を引き連れては、瀬戸のいたる所に威をふるい、平家の水軍か水軍の平家かと、沿海の諸豪しょごう
を、慴伏しょうふく ささた経験があるからである。 御所のすぐ対岸
── 船隠しの浦を、兵船の寄せ場として、彼は、毎日のように、水夫かこ
楫取かんどり に、号令をかけていた。いざという日の操練そうれん
のためにである。 「判官ほうがん
義経よしつね 、梶原らが、院宣を振りかざして、渡辺ノ津に、船算段ふなさんだん
をこらし、やがてこれへ襲よ せて来るとか、しきりに大言をしておるそうだが、ぢんな水軍を仕立てて来るか、来れば見ものだ」 船櫓ふなやぐら
に突っ立った彼の姿が、海風の中で、大口あいて、嘲わら
っていた。 そして、あたりの将士へ、そこの半島の出口から北方の海を指さしつつ、 「── およそ。義経の水軍が、襲おそ
うとせば、明石あかし の水み
ノ門と から小豆島しょうどしま
の東をよぎって来るしかない。その時、それを迎え撃つ調練なるぞ。源氏の船を、そこの水路に見たものとして、船陣ふなじん
を立ててみよ、漕こ ぎ回まわ
してみよ」 と、説くのであった。 こうして、八栗、屋島の湾内では、万一に備える船手の将士の諸声もろごえ
や櫓音ろおと の聞こえぬ日はなかった。 また、陸上には、侍大将の越中次郎えっちゅうのじろう
兵衛盛嗣びょうえもりつぐ 、上総かずさの
忠光ただみつ 、飛騨四郎兵衛ひだのしろうびょうえ
景経かげつね 、悪七兵衛景清などが、組々の兵を擁して、木戸の守り、街道を偵察、御所の守護など、夜も昼も、怠りはない。。 それらの上にある内府宗盛らの首脳部も、 「つねに、この讃岐沖さぬきおき
と、小豆島の東から南へかけての海上に心をつけよ」 と、敵の襲来は、その方角と見越して、まったく、それ以外は視界にないかのような方針によっていた。 「よこ─
ここを攻むるには、水軍によらねば、近づくことも出来ぬ」 という余りにも海面の恃たの
みを重視しすぎた考えに、固着していたのである。 そして、ひそかに、 「田辺の湛増も、はや見えそうなもの」 と、心待ちにしていた。 それを問われると、さくらノ局は、 「わずかな船数ふなかず
ではありません。おびただしい数の水軍、船出のお支度とて、たいへんでしょう。調ととの
い次第、ほどなくお渡りまされましょう」 と、たれへ向かっても、そう誇らかに、答えるのが常だった。それは彼女自身も固く信じてい、つゆほども疑っている容子ようす
はない。 ── とかくするうち、二月十四、五日からの、あの大暴風雨が、突然、ここの屋島をも、吹き荒した。 摂津の淀や渡辺の地方でさえ、多くの兵船が、あれほどな損害に見舞われた。──
ここ屋島の、ひどかったことは当然で、その惨害は、言語の絶ぜつ
する。 長上の屋島寺は、寺房の幾つかが、屋根を吹き飛ばされ、全山木々の葉は、粉になって散り、傷いた
ましい折れ木の肌を見せたのや、根こそぎ吹き倒された巨木は、何本か数も知れない。 平軍の陣屋陣屋は、ひとしく皆、仮屋かりや
建てなので、あの大暴風の前には、ひとたまりもないはずだが、幸いな事には、陣屋や兵舎は、すべて、人目立たぬ岩陰とか、深い木立こだち
の奥にわざと沈めて建ててあるものだった。内裏の造営も同様にしてあったので、屋根までは攫と
られなかったが、しかし、壁は抜かれ、床下は渓水たにみず
となり、黒木くろき の柱は、傾いてしまうなど、みじめな三日三晩であった。 ──
ようやく、霽は れ間ま
が見え。風がおさまった十九日の朝は、 「それ、大屋根の修繕つくろ
いを、まず急げ」 「お座所の壁も、雨漏りに洗われて、あとかたもないとか」 「いや、ひどいことだ。陣屋の柵さく
の杭くい も、どこへ流れ去ったやら
── 。道さえ、まるで河原と変じてしもうたわ」 「やれ、やれ無残、何もかもだ。── この始末、一体何から手をつけたらよいのか」 将士から局の女房たちまでも、その日、屋島中の男女は、すべておのおのの罹災りさい
の跡に茫然ぼうぜん とし、そして、その後始末に暮れていたのである。 兵馬のこと、日ごろの備えなども、つい忘れ果てていたのも無理はない。その朝炊かし
ぐ糧かて の物すら水びたしの有様で、主上の供御くご
さえ、どうしようと、うろたえていたほどだった。 まして、たれが、想像もなしえたろうか。 その朝十九日、義経の百数十騎が阿波国の一端に、船を乗り捨てて、一路、阿讃あさん
国境の嶮けん をさして、この屋島へ近づきつつあろうなどとは
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