〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/17 (月) 神 な ら ぬ 身 (一)

さくらノ局が来てからは、彼女が持つ局名つぼねな のそれのように、屋島一帯の陣営は、ぱっと明るくなった。
春告鳥はるつげどり の一声にも似ていた、春の曙光しょこう がどこからか、 しこぼれて来たようでもある。
「もう大丈夫。田辺がお味方へくわわるからには」
と、内裏に仕える小女房のまゆ までが、それからは、なんとなく晴々はればれ しかった。
そして、さくらノ局その人の、濃い化粧やら装いのうるわ しさにも気づいて、急に、女房たちも、忘れていた都振りや都の香を思い出したものか、自分たちの身化粧にも、新たな りと競いをもち出して、おのおのが、自身の美をまた取り戻そうとしたりしていた。
そうした心理は、あながち、女房たちの中だけにかも された気配けはい ではない。
現れ方こそべつだが、内府宗盛のきげんも、ここ明らかに違って来ている。
「どうも、大理殿 だいりどの (二位ノ尼の実弟、清盛の義弟、大納言時忠) は、ややもすれば、尼公 にこう へ弱気なことをおすすめ申して困る。── いちど門脇殿 かどわきどの からでも、よういってもらいたいのだの。意見あらば、軍議の席で申し、蔭へまわって、尼公のお心を乱すような献言は止めてほしいと」
総領の宗盛は、強気なのだ。
ことにここへ来て ── 湛増の味方を計算に入れたせいもあろう ── ひどく強気を増していたのである。
ところが今朝。
母の尼公に許へ、朝の挨拶に出向くと、尼のまぶた れている。わけをただすと、夕べ深更まで、大納言時忠が話し込んでいたらしい。
そして、その時忠が言うには、
── もう現在のような形になってしまっては、どう苦労しても一門の苦労は、しょせん水泡 すいほう に帰すほかはない。
せめて、今のうちに和睦わぼく を講じるならば、以前の平家を夢見るなどは、もちろん望みもえないが、しかし、一門のたれかが助けられ、まして、幼いみかどや建礼門院そのほかの婦女子はすべて無事に都へうつ されよう。また、名なばかりにせよ、平家も残る。
まず、神器をおかえ し申さん ── ということを、和議の条件に入れて、尼公から、院へそっとお使いを派し、院の旨を先に打診されてみてはいかがか。
また、万一。
追討の大将義経が、これへ迫るきゅう な日となっても、もし、この時忠に和議の条件をおまか せあるなれば、時忠が交渉の任に当たってもよい。
じつは、数年前 ── 自分が都において、大理卿だいりきょう (検非違使ノ別当) を勤めていたとき、その義経なる小冠者を自邸のろう から放してやったことがある。それを、いささかの恩とも彼が考えているならば、かならず、よろこんで当方の提議を れ、鎌倉へも、よい扱いをしてくれることかと思う。
自分も一門の端、誓いは変わらぬが、なんとしても、おいとけない八歳のみかどや、おん母の建礼門院のお行く末を考えると、たけ男心おごころ も失せ、夜も眠れず、自責にせめられてたまらない。── 真の大慈悲とは、おのれの望まぬことも、人を生かすためには、おにれを捨てるところにあろうと考えられる。
か、修羅しゅら か、今のうちなら、まだ、どっちかを選べる余地がなくはない。どうか、尼公にももう一度、よう考えていただきたい。
── 時忠は、夕べ、諄々じゅんじゅん と、こう言って、尼を説いたということであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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