〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/17 (月) や し ま 世 帯 (二)

── 月の初め、二月七日には、一門の男女がみな会して、ふもと牟礼むれ六万寺ろくまんじ で、涙ながらの大法要が営まれた。
一ノ谷の一周忌である。
その二月七日だった。
平家の人びとにとって、この日を、どうして、忘れることが出来ようか。── 鐘が告げる。鐘が呼ぶ。
幼いみかどまでを、御輿みこし に乗せまいらせ、つづく輿には、おん母の建礼門院、二位ノ尼も見えた。そのほか、屋島にたてこもる数千の男女すべて、牟礼むれ 六万寺に集まって、庭を埋めた。
「・・・・・」
胸の思いを、それぞれの胸にだけ持って、順々に、こうねん じ、 を合わせては、代ってゆく。そこはただ、人の涙の海であった。
鵯越え、一ノ谷で戦死した幾多いくた の公卿たちや侍大将の位牌いはい は、そこの壇に仰がれたが、中将重衡しげひら の名と、維盛これもり の名は見えない。
維盛これもり は、その後、高野とか熊野とかに、逃げ隠れたと沙汰されており、重衡の中将は、生捕いけど られて、鎌倉へ送られたと聞こえているほか ── ここには生死のほどもよく分かっていないからであった。
「・・・・亡き入道殿の御気性もうけて、多くの和子わこ のうちでも、一ばい、頼もしげなお人であったものを」
と、二位ノ尼は、袖を濡らして、
「── せめて、重衡しげひら どのが、ここにいてくれたら」
と、なまじ生死も分からぬだけに、彼女はその日、幾たび、重衡の名を、嘆きにもらしたことか知れなかった。
とむら う仏たちの名は余りに生々なまなま しくて、そして数も多く、法要のむしろ香華こうげ は余りに寒々として一門の仏事としては、いかにももの貧しい。しかしただ、供養僧の導師には事欠かなかった。
縁故には僧侶そうりょ も多く、僧たちも、従軍していたのである。
二位ノ僧都そうず 専親せんしん (二位ノ尼の養子)
勝法寺ノ能円
中納言ノ律師りっし 仲快 (教盛の義弟)
阿闍梨裕円 (経盛の義弟)
などが主なる者で、また、それらの師に従って来ている弟子僧も十幾人かあった。
もちろん、この人びととて、供養役のために陣中にいるわけではない。みな、法衣の上に、具足腹巻をつけていた。
そして、散会の後も、これらの僧衣武者と、上座の人びとだけは、あとに残った。
前日飛報があったのである。
長門の彦島にある知盛とももり からの早船だった。
── 伊予の河野こうの 通信みちのぶ が、高知こうち安芸太郎あきのたろう 兄弟をも誘って、いよいよその戦力を拡大し、ちかく、海上に働き出してくる気配が見える。
と、すれば彦島は危ない。
もしまた、通信の軍勢が、海上を いて、陸路を北上するならば、彦島は、摂津せっつ から下る義経軍との間に立ち、はさうさ ちの形になる。
いずれにせよ、伊予を現状のまま、見過ごしておられるのは、危険このうえもないであろう。彼らがまだ、高知の水軍と一つにならないうちに、兵を派して、伊予を撃ちたい らげられよ。── という勧告だった。
それについては、昨夜から、宗盛を中心に、
「このうえ、ここの兵を いて、伊予へさし向けるなどは、果たして、得策であろうか、否か」
さっそく、評議にかかっていたが、 という者、 という者、意義まちまちのまま、今日へ持ち越されていたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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