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月の初め、二月七日には、一門の男女がみな会して、麓
の牟礼むれ の六万寺ろくまんじ
で、涙ながらの大法要が営まれた。 一ノ谷の一周忌である。 その二月七日だった。 平家の人びとにとって、この日を、どうして、忘れることが出来ようか。──
鐘が告げる。鐘が呼ぶ。 幼いみかどまでを、御輿みこし
に乗せまいらせ、つづく輿には、おん母の建礼門院、二位ノ尼も見えた。そのほか、屋島にたてこもる数千の男女すべて、牟礼むれ
六万寺に集まって、庭を埋めた。 「・・・・・」 胸の思いを、それぞれの胸にだけ持って、順々に、香こう
を拈ねん じ、掌て
を合わせては、代ってゆく。そこはただ、人の涙の海であった。 鵯越え、一ノ谷で戦死した幾多いくた
の公卿たちや侍大将の位牌いはい
は、そこの壇に仰がれたが、中将重衡しげひら
の名と、維盛これもり の名は見えない。 維盛これもり
は、その後、高野とか熊野とかに、逃げ隠れたと沙汰されており、重衡の中将は、生捕いけど
られて、鎌倉へ送られたと聞こえているほか ── ここには生死のほどもよく分かっていないからであった。 「・・・・亡き入道殿の御気性もうけて、多くの和子わこ
のうちでも、一ばい、頼もしげなお人であったものを」 と、二位ノ尼は、袖を濡らして、 「── せめて、重衡しげひら
どのが、ここにいてくれたら」 と、なまじ生死も分からぬだけに、彼女はその日、幾たび、重衡の名を、嘆きにもらしたことか知れなかった。 弔とむら
う仏たちの名は余りに生々なまなま
しくて、そして数も多く、法要の莚むしろ
や香華こうげ は余りに寒々として一門の仏事としては、いかにももの貧しい。しかしただ、供養僧の導師には事欠かなかった。 縁故には僧侶そうりょ
も多く、僧たちも、従軍していたのである。 二位ノ僧都そうず
専親せんしん (二位ノ尼の養子) 勝法寺ノ能円 中納言ノ律師りっし
仲快 (教盛の義弟) 阿闍梨裕円 (経盛の義弟) などが主なる者で、また、それらの師に従って来ている弟子僧も十幾人かあった。 もちろん、この人びととて、供養役のために陣中にいるわけではない。みな、法衣の上に、具足腹巻をつけていた。 そして、散会の後も、これらの僧衣武者と、上座の人びとだけは、あとに残った。 前日飛報があったのである。 長門の彦島にある知盛とももり
からの早船だった。 ── 伊予の河野こうの
通信みちのぶ が、高知こうち
の安芸太郎あきのたろう 兄弟をも誘って、いよいよその戦力を拡大し、ちかく、海上に働き出してくる気配が見える。 と、すれば彦島は危ない。 もしまた、通信の軍勢が、海上を措お
いて、陸路を北上するならば、彦島は、摂津せっつ
から下る義経軍との間に立ち、挟はさ
み撃うさ ちの形になる。 いずれにせよ、伊予を現状のまま、見過ごしておられるのは、危険このうえもないであろう。彼らがまだ、高知の水軍と一つにならないうちに、兵を派して、伊予を撃ち平たい
らげられよ。── という勧告だった。 それについては、昨夜から、宗盛を中心に、 「このうえ、ここの兵を割さ
いて、伊予へさし向けるなどは、果たして、得策であろうか、否か」 さっそく、評議にかかっていたが、可か
という者、非ひ という者、意義まちまちのまま、今日へ持ち越されていたのである。
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