平家とっては、なぜか、二月は凶月である、二月に吉
いことはあまりない。 ついここ四、五年の間でさえも。 一門の親ばしら平相国清盛を亡うしな
ったのは、四年前の、養和元年二月であった。 また。 薩摩守さつまのかみ
忠度ただのり やら、越前三位えちぜんのさんみ
通盛みちもり やら、そのほか敦盛あつもり
、経俊つねとし 、経正、師盛もろもり
、業盛なりもり 、知章ともあきら
、清房、清貞などの一門多くの公達までを、あえなく討死させて、総軍、無残に敗れ帰った一ノ谷、鵯越の合戦も ── ちょうど、まる一年前の、二月七日だ。 そしてまた、永寿四年という今年の二月は、どんな二月を送ることだろうか。 いま、屋島にある人びとは、 「──
あわれ、つつがなかれ」 とばかり、この凶月を、ひそかに祈りあっていた。 ふたたび播磨はりま
、摂津せっつ へ上陸して、源氏を都から撃ち退しりぞ
けん ── などという望みは、昨日今日の有様では、思いもよらない。 「ただ無事に」 と祈られるのが、精いっぱいな屋島であった。 一ノ谷、鵯越えでうけたあの大きな痛手は、一年や二年の短時日で、到底、癒えるものではない。 物的な軍力の喪失そうしつ
も、莫大なものには違いなかったが、眼にも見えて、一門の衰色すいしょく
を深めたのは、なんといっても、血につながる子や孫や、また兄や弟や叔父おじ
甥おい などの、頼みとしていた人びとが、昨日は味方に見えながら、今日は屋島に見えない儚はかな
さだった。 二位ノ尼 (清盛の未亡人) を始め、一門の総領の内府ないふ
宗盛むねもり 、経盛などは、その辛さと淋しさに、じっと耐えてみせねばならない立場の人びとであったが、にわかに老いを加えた尼ノ君といい、内大臣おおい
の殿との (宗盛)
の鈍にぶ い顔色といい、ともすれば、それらの首脳部の人の姿が、かえって、下の憂いを誘うものになった。どうかすると、この島すべてが、終日の波音のほか、まったく人の声だにしないことさえある。 ──
がまた、まれには、突然、艶あで
な女性たちの笑い声や無邪気な高声が、どこかで谺こだま
しないこともない。 そして、そこには必ず、明けて八歳になられる幼い主上 (安徳天皇) の喜々と跳ねまわっているお姿が見られた。 屋島内裏だいり
、または、屋島ノ御所とよばれる主上のお住居は、ちょっと、どこからも分からない場所にある。── しいていえば、屋島の東側にあたる山腹で、その下は、ひところ深い湾になってい、瀞とろ
のような深碧しんぺき の入江をへだて、すぐ真向うの対岸の山には、八栗やぐり
半島の五剣山ごけんざん である。 内裏は、かつて阿波民部が、急造営したもので、鑿のみ
や手斧ちょうな を用いた所は少なく、いわゆる黒木造づく
りの、ザッとしたもので、ことばでは 「玉座」 「雲井の上」 と仰いでいるが、事実は、荒壁御所というほかはない。 けれど、人の住居は、住む人によって、おのずからその風趣を持つものである。 主上の昼の大殿おおどの
、夜よる の御殿みどの
、中殿ちゅうでん 、お学問所などの棟々むねむね
は、さすが清々すがすが と、鳥の音も澄むばかり、つねに清掃せいそう
されている。 また。 おん母の建礼門院けんれいもんいん
の起居している御廂みひさし の坪には、清涼殿せいりょうでん
の御溝水みかわみず を模うつ
したかと思われる流れがせんかん・・・・
と耳を洗っていた。── 二位ノ尼の一殿いちでん
も、遠くはない。異郷の心細さ、山中のさびしさに 「離れじものを」 と、母子おたがいに、肌を寄せ合うている人そのもののようにもそれはながめられる。 そのほか、ここには、みかどに侍かしず
く典侍てんじ やら、あまたな女房、小女房たちも何十人となくいるのである。それらの局々つぼねつぼね
も、遠方此方おちこち の木の間をつづりあって、風雅と見れば、都の皇居にはない雅趣であった。そして、まだ春浅い如月きさらぎ
の屋島の蔭に、花危あや うげな崖がけ
の梅や山桜の木々のその運命を似せて、こんな自然の中にも、なお都恋しげな園生そのう
の様を守りあっているのであった。 |