〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/15 (土) や し ま 世 帯 (一)

平家とっては、なぜか、二月は凶月である、二月に いことはあまりない。
ついここ四、五年の間でさえも。
一門の親ばしら平相国清盛をうしな ったのは、四年前の、養和元年二月であった。
また。
薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり やら、越前三位えちぜんのさんみ 通盛みちもり やら、そのほか敦盛あつもり経俊つねとし 、経正、師盛もろもり業盛なりもり知章ともあきら 、清房、清貞などの一門多くの公達までを、あえなく討死させて、総軍、無残に敗れ帰った一ノ谷、鵯越の合戦も ── ちょうど、まる一年前の、二月七日だ。
そしてまた、永寿四年という今年の二月は、どんな二月を送ることだろうか。
いま、屋島にある人びとは、
「── あわれ、つつがなかれ」
とばかり、この凶月を、ひそかに祈りあっていた。
ふたたび播磨はりま摂津せっつ へ上陸して、源氏を都から撃ち退しりぞ けん ── などという望みは、昨日今日の有様では、思いもよらない。 「ただ無事に」 と祈られるのが、精いっぱいな屋島であった。
一ノ谷、鵯越えでうけたあの大きな痛手は、一年や二年の短時日で、到底、癒えるものではない。
物的な軍力の喪失そうしつ も、莫大なものには違いなかったが、眼にも見えて、一門の衰色すいしょく を深めたのは、なんといっても、血につながる子や孫や、また兄や弟や叔父おじ おい などの、頼みとしていた人びとが、昨日は味方に見えながら、今日は屋島に見えないはかな さだった。
二位ノ尼 (清盛の未亡人) を始め、一門の総領の内府ないふ 宗盛むねもり 、経盛などは、その辛さと淋しさに、じっと耐えてみせねばならない立場の人びとであったが、にわかに老いを加えた尼ノ君といい、内大臣おおい殿との (宗盛)にぶ い顔色といい、ともすれば、それらの首脳部の人の姿が、かえって、下の憂いを誘うものになった。どうかすると、この島すべてが、終日の波音のほか、まったく人の声だにしないことさえある。
── がまた、まれには、突然、あで な女性たちの笑い声や無邪気な高声が、どこかでこだま しないこともない。
そして、そこには必ず、明けて八歳になられる幼い主上 (安徳天皇) の喜々と跳ねまわっているお姿が見られた。
屋島内裏だいり 、または、屋島ノ御所とよばれる主上のお住居は、ちょっと、どこからも分からない場所にある。── しいていえば、屋島の東側にあたる山腹で、その下は、ひところ深い湾になってい、とろ のような深碧しんぺき の入江をへだて、すぐ真向うの対岸の山には、八栗やぐり 半島の五剣山ごけんざん である。
内裏は、かつて阿波民部が、急造営したもので、のみ手斧ちょうな を用いた所は少なく、いわゆる黒木づく りの、ザッとしたもので、ことばでは 「玉座」 「雲井の上」 と仰いでいるが、事実は、荒壁御所というほかはない。
けれど、人の住居は、住む人によって、おのずからその風趣を持つものである。
主上の昼の大殿おおどのよる御殿みどの中殿ちゅうでん 、お学問所などの棟々むねむね は、さすが清々すがすが と、鳥の音も澄むばかり、つねに清掃せいそう されている。
また。
おん母の建礼門院けんれいもんいん の起居している御廂みひさし の坪には、清涼殿せいりょうでん御溝水みかわみずうつ したかと思われる流れがせんかん・・・・ と耳を洗っていた。── 二位ノ尼の一殿いちでん も、遠くはない。異郷の心細さ、山中のさびしさに 「離れじものを」 と、母子おたがいに、肌を寄せ合うている人そのもののようにもそれはながめられる。
そのほか、ここには、みかどにかしず典侍てんじ やら、あまたな女房、小女房たちも何十人となくいるのである。それらの局々つぼねつぼね も、遠方此方おちこち の木の間をつづりあって、風雅と見れば、都の皇居にはない雅趣であった。そして、まだ春浅い如月きさらぎ の屋島の蔭に、花あや うげながけ の梅や山桜の木々のその運命を似せて、こんな自然の中にも、なお都恋しげな園生そのう の様を守りあっているのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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