〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/15 (土)  うま たい (二)

── 丹生にぶ でわれらを待て、と義経が野馬隊に命じておいたのは、かねて、近藤六から、
「道は、丹生にぶ の町田の辻より、二道にどう に別れ、そのいずれを行くも、おなじ道程みちのり にて、おなじ屋島へ行き着きまする」
と、聞いていたからであった。
今、ここへ来て、その二つの道を見くらべると ──
一方は、中山の北を越えて、海添いに、小豆島しょうどしま をかなたに見つつ、鶴羽、津田、志度しどうら を経て、屋島の東へ出る。
そして、それを北道ほくどう とよべば、もう一つの方は、南道なんどう ともいえようか。
── 中山の南を通って、田面たづら を越え、長尾ごう からいけ へ出、屋島の南、古高松ふるたかまつ の里へ着く。
「さて大事。右せんか、左せんか」
岐路きろ に馬を立てて、義経は、考え込んだ。
たった一歩の別れだが、えて、こういう時に、重大な過ちは犯されるものだった。悪かったと分かる時は、もう間に合わないし、個々の勇なども、そうなった場合、到底、挽回ばんかい するほどな力のあるものではない。
しきりに、彼は、心のうちで比較する。
北道は、海添いで、わりに平坦へいたん だが、小さい山坂は幾つもある。それに、たえず行軍の一面を海上へさら してゆくという危険がともな う。
また、その方面の津田や、志度しど の浦々などは、当然、平家の水軍が常に遊弋ゆうよく する水域といってよい。
そのおそ れがないのは、南の長尾道ながおみち だ。
途中の田面たづら 越えは、かなりけわ しいというが、しかし、そこから先、ふる 高松までは、讃岐平さぬきだいら坦々たんたん たる平野である。
義経は、とっさに、
「長尾道がよい。長尾道こそ」
と、はら を決めた。
しかし、北道を全然捨ててかえりみないのも危険であった。
彼は、一計をあん じて、
「伊勢三郎と深栖ふかすの 陵助りょうすけ は、淡路の組をひきいて、北の道を行け」
と、命令した。
そして、なお、
「── 志度しど を過ぎ、敵の屋島へ近づきなば、手に手に、一松明いちたいまつ をかざし、道の木々にも、燃えたる松明をゆわ いつけて、そのまま過ぎよ。敵をあざむく、火の偽計ぞ、心して行え」
と、いいふくめた。
つまり、火の偽計とは、敵の錯覚をはか って、わずかな人数の野馬隊を、松明の火で、何十倍にも見せるように ── ということなのだ。義経は、なお、司令の語をつづけた。
「── また、われら本軍は、南の長尾道を駆け抜け、夜明けぬまに、古高松より屋島へ迫ろう。北も南も、道程みちのり はほぼ同じとのこと。・・・・夜明けを期して、屋島のすそにて、またこと らの組と、一つになろうぞ」
「承りました。さらば、それがしどもは、志度を経て」
伊勢三郎たちは、一せいに、鞍腰くらごし をすえ直し、ただちに、そこから北道へ向かって行った。
あとの全将士は、その行動を、義経の影一つに託しいる姿だった。すべて馬の首を、一方にそろえ、寂として、命を待っていた。
義経は、しずかな で、月の下にキラめく百七、八十騎を、頼もしげにかえりみて、
「ここより古高松まで、およそ五里、山坂は田面たづら一所いっしょ だけと聞く、越ゆれば、あとは平地ひらち 、敵の屋島まで、ただひた押しぞ。── 思えば、あの荒海を越えて、眼前に今、屋島を見んとは、なんたるさちせか。天の擁護は、われらにありと覚えたり。いざ行こう、人びと」
と、告げわたした。
そして、むち を手綱に持ち添えるやいいな、真っ先に駆け出した。── おくれじと、彼に続く真っ黒な鉄騎の一陣も、とどろな駒音を大地にたてて、田面たづら 、長尾の木蔭や月の道を、疾風はやて のように、よぎり去った。
一痕いっこん
人の世のことは、何も知らぬような顔して、空に残っていた。
その月の位置も、弁慶が言ったとおり、こく の線をもうだいぶ西へ えている。
時はすでに、十九日を昨日として、寿永四年の二月二十日にはいっていたのである。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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