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丹生 でわれらを待て、と義経が野馬隊に命じておいたのは、かねて、近藤六から、 「道は、丹生にぶ
の町田の辻より、二道にどう に別れ、そのいずれを行くも、おなじ道程みちのり
にて、おなじ屋島へ行き着きまする」 と、聞いていたからであった。 今、ここへ来て、その二つの道を見くらべると ── 一方は、中山の北を越えて、海添いに、小豆島しょうどしま
をかなたに見つつ、鶴羽、津田、志度しど
ノ浦うら を経て、屋島の東へ出る。 そして、それを北道ほくどう
とよべば、もう一つの方は、南道なんどう
ともいえようか。 ── 中山の南を通って、田面たづら
を越え、長尾郷ごう から池いけ
ノ戸べ へ出、屋島の南、古高松ふるたかまつ
の里へ着く。 「さて大事。右せんか、左せんか」 岐路きろ
に馬を立てて、義経は、考え込んだ。 たった一歩の別れだが、えて、こういう時に、重大な過ちは犯されるものだった。悪かったと分かる時は、もう間に合わないし、個々の勇なども、そうなった場合、到底、挽回ばんかい
するほどな力のあるものではない。 しきりに、彼は、心のうちで比較する。 北道は、海添いで、わりに平坦へいたん
だが、小さい山坂は幾つもある。それに、たえず行軍の一面を海上へ曝さら
してゆくという危険が伴ともな
う。 また、その方面の津田や、志度しど
の浦々などは、当然、平家の水軍が常に遊弋ゆうよく
する水域といってよい。 その惧おそ
れがないのは、南の長尾道ながおみち
だ。 途中の田面たづら
越えは、かなり嶮けわ しいというが、しかし、そこから先、古ふる
高松までは、讃岐平さぬきだいら
の坦々たんたん たる平野である。 義経は、とっさに、 「長尾道がよい。長尾道こそ」 と、肚はら
を決めた。 しかし、北道を全然捨ててかえりみないのも危険であった。 彼は、一計を按あん
じて、 「伊勢三郎と深栖ふかすの
陵助りょうすけ は、淡路の組をひきいて、北の道を行け」 と、命令した。 そして、なお、 「──
志度しど を過ぎ、敵の屋島へ近づきなば、手に手に、一松明いちたいまつ
をかざし、道の木々にも、燃えたる松明を結ゆわ
いつけて、そのまま過ぎよ。敵をあざむく、火の偽計ぞ、心して行え」 と、いいふくめた。 つまり、火の偽計とは、敵の錯覚を謀はか
って、わずかな人数の野馬隊を、松明の火で、何十倍にも見せるように ── ということなのだ。義経は、なお、司令の語をつづけた。 「── また、われら本軍は、南の長尾道を駆け抜け、夜明けぬまに、古高松より屋島へ迫ろう。北も南も、道程みちのり
はほぼ同じとのこと。・・・・夜明けを期して、屋島のすそにて、また汝こと
らの組と、一つになろうぞ」 「承りました。さらば、それがしどもは、志度を経て」 伊勢三郎たちは、一せいに、鞍腰くらごし
をすえ直し、ただちに、そこから北道へ向かって行った。 あとの全将士は、その行動を、義経の影一つに託しいる姿だった。すべて馬の首を、一方にそろえ、寂として、命を待っていた。 義経は、しずかな眸め
で、月の下にキラめく百七、八十騎を、頼もしげにかえりみて、 「ここより古高松まで、およそ五里、山坂は田面たづら
の一所いっしょ だけと聞く、越ゆれば、あとは平地ひらち
、敵の屋島まで、ただひた押しぞ。── 思えば、あの荒海を越えて、眼前に今、屋島を見んとは、なんたるさちせか。天の擁護は、われらにありと覚えたり。いざ行こう、人びと」 と、告げわたした。 そして、鞭むち
を手綱に持ち添えるやいいな、真っ先に駆け出した。── おくれじと、彼に続く真っ黒な鉄騎の一陣も、とどろな駒音を大地にたてて、田面たづら
、長尾の木蔭や月の道を、疾風はやて
のように、よぎり去った。 月一痕いっこん
。 人の世のことは、何も知らぬような顔して、空に残っていた。 その月の位置も、弁慶が言ったとおり、子ね
ノ刻こく の線をもうだいぶ西へ更か
えている。 時はすでに、十九日を昨日として、寿永四年の二月二十日にはいっていたのである。 |