「淡路
の組、淡路の組。── 吾野あがの
余次郎よじろう なんどは、そこにおらぬや」 一せいに起こった駒騒こまざわ
めきの中に、義経の呼ぶらしい声を聞いて、吾野余次郎たち四、五人の影は、木の間のかなたから暗がりを走って来 ── 「おん前に」 と、大将の姿へ、ひざまずいた。 「支度がよくば、お汝こと
ら三十人は、先を駆けて、まず、途々みちみち
の是踏みをして行け。腰兵糧は身につけたか」 「はっ。いつにても」 「深夜のこと、宿々しゅくじゅく
には人影だにあるまいが、戸こ
ごとの気配をよく見て通れ。万が一にも、伏兵の惧おそ
れはないか、また、敵の前衛が出ばってはおらぬか、それらの様子も心して見つつ行けよ」 「心得まいた。めずらしくも、先駈けを仰せつかり、身の晴れを覚えまする。・・・・では」 「待て、さは逸はや
るまい」 義経は、彼らの意気込みをむしろ危ぶんで、特にまた、言い足した。 「、おし、途中で敵に行き会わば、すぐ、引っ返して急を告げよ。ゆめ、小さき手柄を思うまいぞ。そして、これより西へ二里ほど、丹生にぶ
の別れ路にて、われらを待て」 つまりは大物見といわれる役目に過ぎない。先鋒隊せんぽうたい
ではないのである。 が、彼らにはなんの不平も見えない。勇み立って、みなここを先発した。── 淡路島を経て、途中から軍勢に加わった彼ら草の実党の特色といえば、何よりその身軽なことにあった。 もともと、彼らの役割が、土民の中にまぎれ込んで敵状を探るという隠密的おんみつてき
なものだったので、初めから身なりも区々まちまち
な雑民すがたで、ボロ腹巻や脛当すねあて
ぐらいは着けていたが、正規の兵装はしていなかったのである。── で、こんな場合、ただちに、大物見として潜行するには、打ってつけな者たちだった。つまり近代でいう便衣隊べんいたい
、当時の野馬隊のうまたい と呼ぶものといってよい。 その夜は、十九日の月。 野馬隊の立ったのが、まさに亥い
の下刻げこく ごろ (午後十一時)
であった。 つづいて、義経らの百七、八十騎も大坂越えの西のふもとを立ち、半月はんげつ
の下を、黒々と、西へ駆けた。── そこの地名は、後に字あざ
「馬宿」 とよばれ、現在の大川郡 「馬宿」 附近が、義経たちの小休止した跡と伝えられている。 馬宿からすぐ引田ひくた
の宿しゅく 。 浦には、漁船や苫舟とまぶね
なども繋かか っていたが、宿場の軒端軒端にも、灯影一ツ見当たらない。人里ながら、まったく、真夜中まよなか
のしじまである。 「幸先さいさき
のよさよ。無人の国を行くような ── 」 と義経は言った。 人ばかりではない。馬蹄ばてい
の音も軽そうだった。総勢の甲冑かっちゅう
が揺れひびく音と蹄音ていおん
の流れが一つに和して、おのずから勇壮な楽譜がくふ
を奏しているのだった。 「近藤六、近藤六」 走り走り、義経は、前を行く案内の近藤六へ。 「ここは、どこか」 「白鳥しらどり
の郷さと でございまする」 「さては、あれなる海辺の森は、白鳥八幡よな」 「されば、古事記とやらにもある古いみ社やしろ
とか聞き及びまする。八幡は、源家の守り神とか、下馬げば
なされて、戦捷せんしょう の御祈願を籠こ
められますや」 「無用、無用」 義経は、手綱も休や
めず ── 「もし、われをいとしむ神あらば護らせ給えとは、渡辺ノ津を船出するさい、あの荒天こうてん
へ向かって祈ったことぞ。すでに、敵地へ入りながら、なお神だのみに縋すが
る心はない」 と、一瞬いっとき
の駒脚もゆるめなかった。 その一言は、前後の諸将の心へも、きびしい拍車をかけたであろう。 二里は、またたくまに駆けた。三本松から、そして丹生にぶ
の追分道。── 先に立った野馬隊は、すでにそこで一息いれ、馬に草を食わせながら、約束通り、待ち合わせていた。 よく星辰せいしん
を観み るといわれる武蔵坊弁慶は、ここまで来て、同勢とともに手綱を休めると、馬上、天文を案じながら、 「やよ人びと、北斗の位くらい
、月のありどころ。時刻はちょうど、今が真ん夜半の子ね
ノ一点いってん (正十二時)
にて候うぞ。── 十九日と二十日の境、また、陰より陽へ移る境。── なおまだ、天地は晦くら
しといえど、気はすでに陽よう
の兆きざ し。振い給え、おのおの」 と、得意の大声を張り上げて言った。 |