〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/15 (土)  うま たい (一)

淡路あわじ の組、淡路の組。── 吾野あがの 余次郎よじろう なんどは、そこにおらぬや」
一せいに起こった駒騒こまざわ めきの中に、義経の呼ぶらしい声を聞いて、吾野余次郎たち四、五人の影は、木の間のかなたから暗がりを走って来 ── 「おん前に」 と、大将の姿へ、ひざまずいた。
「支度がよくば、おこと ら三十人は、先を駆けて、まず、途々みちみち の是踏みをして行け。腰兵糧は身につけたか」
「はっ。いつにても」
「深夜のこと、宿々しゅくじゅく には人影だにあるまいが、 ごとの気配をよく見て通れ。万が一にも、伏兵のおそ れはないか、また、敵の前衛が出ばってはおらぬか、それらの様子も心して見つつ行けよ」
「心得まいた。めずらしくも、先駈けを仰せつかり、身の晴れを覚えまする。・・・・では」
「待て、さははや るまい」
義経は、彼らの意気込みをむしろ危ぶんで、特にまた、言い足した。
「、おし、途中で敵に行き会わば、すぐ、引っ返して急を告げよ。ゆめ、小さき手柄を思うまいぞ。そして、これより西へ二里ほど、丹生にぶ の別れ路にて、われらを待て」
つまりは大物見といわれる役目に過ぎない。先鋒隊せんぽうたい ではないのである。
が、彼らにはなんの不平も見えない。勇み立って、みなここを先発した。── 淡路島を経て、途中から軍勢に加わった彼ら草の実党の特色といえば、何よりその身軽なことにあった。
もともと、彼らの役割が、土民の中にまぎれ込んで敵状を探るという隠密的おんみつてき なものだったので、初めから身なりも区々まちまち な雑民すがたで、ボロ腹巻や脛当すねあて ぐらいは着けていたが、正規の兵装はしていなかったのである。── で、こんな場合、ただちに、大物見として潜行するには、打ってつけな者たちだった。つまり近代でいう便衣隊べんいたい 、当時の野馬隊のうまたい と呼ぶものといってよい。
その夜は、十九日の月。
野馬隊の立ったのが、まさに下刻げこく ごろ (午後十一時) であった。
つづいて、義経らの百七、八十騎も大坂越えの西のふもとを立ち、半月はんげつ の下を、黒々と、西へ駆けた。── そこの地名は、後にあざ 「馬宿」 とよばれ、現在の大川郡 「馬宿」 附近が、義経たちの小休止した跡と伝えられている。
馬宿からすぐ引田ひくた宿しゅく
浦には、漁船や苫舟とまぶね などもかか っていたが、宿場の軒端軒端にも、灯影一ツ見当たらない。人里ながら、まったく、真夜中まよなか のしじまである。
幸先さいさき のよさよ。無人の国を行くような ── 」
と義経は言った。
人ばかりではない。馬蹄ばてい の音も軽そうだった。総勢の甲冑かっちゅう が揺れひびく音と蹄音ていおん の流れが一つに和して、おのずから勇壮な楽譜がくふ を奏しているのだった。
「近藤六、近藤六」
走り走り、義経は、前を行く案内の近藤六へ。
「ここは、どこか」
白鳥しらどりさと でございまする」
「さては、あれなる海辺の森は、白鳥八幡よな」
「されば、古事記とやらにもある古いみやしろ とか聞き及びまする。八幡は、源家の守り神とか、下馬げば なされて、戦捷せんしょう の御祈願を められますや」
「無用、無用」
義経は、手綱も めず ──
「もし、われをいとしむ神あらば護らせ給えとは、渡辺ノ津を船出するさい、あの荒天こうてん へ向かって祈ったことぞ。すでに、敵地へ入りながら、なお神だのみにすが る心はない」
と、一瞬いっとき の駒脚もゆるめなかった。
その一言は、前後の諸将の心へも、きびしい拍車をかけたであろう。
二里は、またたくまに駆けた。三本松から、そして丹生にぶ の追分道。── 先に立った野馬隊は、すでにそこで一息いれ、馬に草を食わせながら、約束通り、待ち合わせていた。
よく星辰せいしん るといわれる武蔵坊弁慶は、ここまで来て、同勢とともに手綱を休めると、馬上、天文を案じながら、
「やよ人びと、北斗のくらい 、月のありどころ。時刻はちょうど、今が真ん夜半の一点いってん (正十二時) にて候うぞ。── 十九日と二十日の境、また、陰より陽へ移る境。── なおまだ、天地はくら しといえど、気はすでにようきざ し。振い給え、おのおの」
と、得意の大声を張り上げて言った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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