〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/15 (土) 大 坂 越 え (三)

もう け沈んできたころである。
大坂越えの道ばたに身を潜めていた見張りの兵が、ふと、人の跫音あしおと を、耳にした。
草むらから、首をのばして見ると、今日越えて来た頂の方から、すたすたと夜道を急いで来る男がある。
屈強な者とは見えない。ただの平雑人ひらぞうにん である。
「・・・・はてな」
男は、怪しむように、小鼻を働かせて、道の左右を見まわしながら、
「いやに、馬のにお いがするが、御軍勢でも通ったのか」
と、つぶやいた。
その時、草むらから歩き出した兵は、わざと空とぼけて、のっそりと道へ立ち、
「どちらへ」
と、話しかけた。
小具足姿の人影に、男は、ぎょっとしたらしいが、すぐ何か、ひとり合点した、
「屋島の平家衆でいらっしゃいますか」
「さようで。・・・・夜どおしの大坂越えとは、御苦労なことで」
「いやいや、屋島におられる御一門の御苦労を思えば、都にいるてまえなどは」
「ほほう、はるばる都からで」
「はい」
「船路は、どうなされました」
「幸い、あの大あらしの一日前に、阿波に着いておりましたが、ようやく今日の空を見て、やって参りました。いやもう、山坂はまだ道が悪うて」
「では途々、人のうわさも、お耳にしたことでしょうな」
「どんなことを」
「たくさんな軍勢が通ったなどと」
「いや、一こうに」
「御存知ない?」
「はい。それどころではなく、今日は道ばかり かれました。それゆえの夜旅なので」
「屋島へお急ぎですか」
「されば、都のさる女房の御方から、屋島の内大臣おおい殿 との (宗盛) へ、おんふみ を申しつかって参りましたが、あらしのため、日数 ひかず も思いの外遅れましたのでな」
「やれやれ、それなれば、われらも平家の内、馬を貸してしん ぜよう。・・・・おりふしも、われらも、今日「大坂を越え、屋島へ帰る者なれど、人馬ともに疲れたので、しばしかなたの木蔭にまどろんでいたところ。こうおいでなさい、わしに いて」
ことば巧みに、その男を連れ、見張りの兵は、義経のいる山の祠堂 ほこら のほうへ歩いて来た。
── が、さすが何か、ただならぬものがあったろう。男は突然、身をひるがえして、逃げかけた。
「どこへ行く」
兵は、とびついて、彼ののど くびへ、腕をかけた。へんなわめ きと、木の葉のざわ めきに、辺りの武者も眼をさまし、男は、苦もなく義経の前へ引っ立てられた。
仔細 しさい を聞いて、
内大臣 おおい殿 との へ、頼まれたという女房の文、その男より取り上げて、これへ見せよ」
と、義経は、手に取って見た。
むかし宗盛が、眼をかけた女房であろうか、なま めかしい文字の末に、少しばかり、風聞で知ったらしい源氏方の動きなどが書いてあった。
けれど、源氏の機密というほどなものではない。義経は、一読すると、それを男の手に返して、
「さても、大儀」
と、笑っていった。そして、
「歯の根も合わぬ様子なれど、この文にも、そちの身にも、用のあるわれらではない。── と申しても、われらのせん を越えて、屋島へ行かせるわけにはゆかぬ。明日の陽の高うなるまで、そこらの木蔭で眠りおれ、 ぞ、この男を、わめ いても道へ声の届かぬほど木々の奥へ、しかとくく しつけておけ」
と、いいつけた。
それをしお に、みな眼をさました。あちこちで、大きな伸びや、欠伸あくび をし出す。── よろいの 、具足のひもを、締め直すもあり、そして、また、思い思い、腹ごしらえにもかかり出した。
星を仰ぐと、こく (十二時) は、そろそろ近い。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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