もう更
け沈んできたころである。 大坂越えの道ばたに身を潜めていた見張りの兵が、ふと、人の跫音あしおと
を、耳にした。 草むらから、首をのばして見ると、今日越えて来た頂の方から、すたすたと夜道を急いで来る男がある。 屈強な者とは見えない。ただの平雑人ひらぞうにん
である。 「・・・・はてな」 男は、怪しむように、小鼻を働かせて、道の左右を見まわしながら、 「いやに、馬の臭にお
いがするが、御軍勢でも通ったのか」 と、つぶやいた。 その時、草むらから歩き出した兵は、わざと空とぼけて、のっそりと道へ立ち、 「どちらへ」 と、話しかけた。 小具足姿の人影に、男は、ぎょっとしたらしいが、すぐ何か、ひとり合点した、 「屋島の平家衆でいらっしゃいますか」 「さようで。・・・・夜どおしの大坂越えとは、御苦労なことで」 「いやいや、屋島におられる御一門の御苦労を思えば、都にいるてまえなどは」 「ほほう、はるばる都からで」 「はい」 「船路は、どうなされました」 「幸い、あの大あらしの一日前に、阿波に着いておりましたが、ようやく今日の空を見て、やって参りました。いやもう、山坂はまだ道が悪うて」 「では途々、人のうわさも、お耳にしたことでしょうな」 「どんなことを」 「たくさんな軍勢が通ったなどと」 「いや、一こうに」 「御存知ない?」 「はい。それどころではなく、今日は道ばかり急せ
かれました。それゆえの夜旅なので」 「屋島へお急ぎですか」 「されば、都のさる女房の御方から、屋島の内大臣おおい
の殿 との (宗盛)
へ、おん文 ふみ を申しつかって参りましたが、あらしのため、日数
ひかず も思いの外遅れましたのでな」 「やれやれ、それなれば、われらも平家の内、馬を貸して進
しん ぜよう。・・・・おりふしも、われらも、今日「大坂を越え、屋島へ帰る者なれど、人馬ともに疲れたので、しばしかなたの木蔭にまどろんでいたところ。こうおいでなさい、わしに従
つ いて」 ことば巧みに、その男を連れ、見張りの兵は、義経のいる山の祠堂
ほこら のほうへ歩いて来た。 ── が、さすが何か、ただならぬものがあったろう。男は突然、身をひるがえして、逃げかけた。 「どこへ行く」 兵は、とびついて、彼の喉
のど くびへ、腕をかけた。へんな喚
わめ きと、木の葉の騒 ざわ
めきに、辺りの武者も眼をさまし、男は、苦もなく義経の前へ引っ立てられた。 仔細 しさい
を聞いて、 「内大臣 おおい
の殿 との へ、頼まれたという女房の文、その男より取り上げて、これへ見せよ」 と、義経は、手に取って見た。 むかし宗盛が、眼をかけた女房であろうか、艶
なま めかしい文字の末に、少しばかり、風聞で知ったらしい源氏方の動きなどが書いてあった。 けれど、源氏の機密というほどなものではない。義経は、一読すると、それを男の手に返して、 「さても、大儀」 と、笑っていった。そして、 「歯の根も合わぬ様子なれど、この文にも、そちの身にも、用のあるわれらではない。──
と申しても、われらの先 せん
を越えて、屋島へ行かせるわけにはゆかぬ。明日の陽の高うなるまで、そこらの木蔭で眠りおれ、誰 た
ぞ、この男を、喚 わめ いても道へ声の届かぬほど木々の奥へ、しかと縛
くく しつけておけ」 と、いいつけた。 それを機しお
に、みな眼をさました。あちこちで、大きな伸びや、欠伸あくび
をし出す。── よろいの緒お
、具足のひもを、締め直すもあり、そして、また、思い思い、腹ごしらえにもかかり出した。 星を仰ぐと、子ね
ノ刻こく (十二時)
は、そろそろ近い。 |