〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/15 (土) 大 坂 越 え (二)

ここからふもと へ。
讃岐の引田ひくた白鳥しらとり までは、一気に降るばかりである。
屋島までの数里。また、駒足で急ぐ場合の時間。道々の敵の備えの有無。
それらのことを、近藤六にただし、
「なお夜通しにても、駆けたがよいか。あるいは、適地に、野営して、朝とともに、 せたがよいか」
それを、義経は、みなにはか った。
あの荒海をも、ものともせずに越えて来た人にしては、別人のように、ここへ来て、慎重であった。
一気に行け、という意見。
いや、危うし、という意見。
まちまちであった。
議論を、緒人にまかせ、義経は、木の間越に、空をながめた。── 思いの外、大坂越えの悪路に時を費やしたらしい。 はいつか、あかね ざして、はるか西方の海 ── 屋島の方角に、傾きかけていた。
「いかにおのおの、義経は、かくこそ思う。── ともあれ、今宵は眠っておこう。眠っておくに くはない」
「では、戦いは明日に?」
「そうだ。夜もすがら駆けたのでは、息つくひまもない合戦となろう。── 敵にとれば、長途の兵は、迎え撃つに、撃ちやすい」
「・・・・が、野営のひまに、もし、覚られでもしては」
「それよ。引田、白鳥なんどの麓へ降れば、はや讃岐の人里、浦べでもあるゆえ、屋島へ気取られるおそ れはなお多い。・・・・まず、この山中に夜半よわ まで寝て、 の一点に、ここを立てば、なお屋島へ するも朝のうちであろう」
「げにも」
一同は、うなずき合って、
「途中の宿々しゅくじゅく とて、それなれば、人の寝しずまった間に駆け通れましょう」
と、そのことに一致した。
なお、夕明りの間、小一里ほど進んでおき、やがて麓近くの横道へ、行軍を隠した。
── 星の えが、荒天こうてん つづきの後のせいか、いつもより、あざ らかだった。人も馬も、木の間の奥深く沈みこみ、たれやらの、鼾声いびき ばかりが、あちこちの暗がりから聞こえて来る。
いうまでもなく、見張りの武者は、人里近い辺りまで、二段三段に配られてあり、ここの夢を守るのに、手抜かりはない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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