〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/14 (金) 大 坂 越 え (一)

もう朝ではない。時刻からいえば、午飯さった。
また、大寺とは、土地ところ の名であった。しかし、そこには由来の古い御堂や山門の跡も見える。
近藤六は、日ごろの顔を利かせて、部下や百姓をとく して、将士の接待に、誠意を見せた。
「やれやれ、乾飯ほしい水飯すいはん が、せきの山と思うていたら、思わぬ馳走ちそう にめぐり会ったわ。・・・・だが、余りに腹ふくらしては気懶けだ うなる。なんと、わが殿」
弁慶は、極度な空腹が、急に満たされて、士気のだれるのをおそ れて、義経へ催促した。
「はや、立とうではござりませぬか。人も馬も、堪能たんのう したらしゅう見え申す」
「いかにも」
義経は、かたわらの田代冠者へ、
「お支度は、はやおすましか」
と、 いた。
代冠者たしろのかじゃ 信綱のぶつな は、鎌倉殿の寵臣ちょうしん の一人、梶原のような軍艦かぜは吹かさないが、いわゆる頼朝の目付役で、ここでは副将格だった。
「はっ、いつでも」
彼が立ち、義経の馬上を見ると、一せいにみな、わが駒のそばへ駆け争った。
百五十騎の本軍は、近藤六の部下や、吾野余次郎の一群を加え、二百騎を少し超えていた。
「近藤六。先に立て」
「はっ」
「ここよりは、ただちに、坂西ばんざい の山路だの。道は急か」
「されば、大坂とも呼び申すほどゆえ」
「頂の大坂越えまで、道のりは」
「山路一里余はございましょう」
「そうか。馬の胸突きに懸かっては、いかに心は くとも、馬の気ままに、一歩一歩、よじ登らせてゆくしかない。やよ人びと・・・・、食後の鞍居眠くらいねむり りには、打ってつけの山路ぞ、ゆるやかに れ、ゆるやかにやれ」
降り続いた大雨の後だけに、山道は、河床かわどこ のように、石や土砂を、露出している。
かつかつ と、気長に馬をあやしつつ っても、馬の苦労は、ひととおりでない。鼻を振り鳴らし、大息をあえぎ、毛並みをしとどに濡らしている。
やっと悪路一里を、登りつめた。
この頂が、阿波、讃岐の国境でもあった。
越えて来た後ろの嶮路けんろ と、目の前にひら けた敵地讃岐の山河や海の色に、
「ああ」
ひとしく駒を立て並べたまま、しばし、たれもかも、何かの感慨を、かぶとの眉廂まびさし に包まぬ者はなかった。
── ここでもまた、馬を休ませ、その間に、「諸将は、ひたい を集めて、いかに密かに、そして迅速に、屋島を突くかの、密議をとげた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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