幕僚でも、義経のほか、田代冠者などの、主なる人以外は、まだ、知っていない者が多い。 深栖
陵りょうすけ 助は、いぶかる面々へ、こう話した。 「あれなるは、先に、この陵助とともに、渡辺の地より淡路島へ渡って、万一のために、密々の働きをしていた忍びの仲間なのでおざる。──
おりふし、敵の間隙かんげき を見つけ、急を殿へお告げせんため、それがしと、ほか六名は帰陣したが、なお、三十名ほどを、撫養むや
、土佐泊とさどまり などへ残しておき、時あらば、讃岐にて会わん、と約しおきました。──
御覧ぜよ、われらとの再会を、あのように、よろこび沸わ
いておりまする」 ── と聞いて、人びともみな、初めて、 「そうであったか」 と、うなずきあい、そして、こなたからも、おなじように歓声を返した。 山下の追分に佇たたず
んでいた人々の中には、吾野あがの
余次郎よじろう 、仙波次郎丸、江田源三などの顔が見える。義経の直臣だが、鎌倉殿からは、草の実党の者
── と密かに睨にら まれており、とかく、派手な陣前の功よりも、いつも映は
えない蔭の働きにばかりまわされている者たちだ。 それだけに義経は、この者たちへは、肌をもって接している。単なる主従のかたちを越え、かつての日、武蔵野や相模野さがみの
で結ばれた、草の友として、深く彼らを恃たの
み、彼らもまた、義経の愛情と、将としての優れたその天質に、男の生涯を託すに足るものとしている風であった。 「おお、よくぞ、待ったる」 義経はすぐ、彼らの前に降り立って、 「お汝こと
らの働き、陵助よりつぶさに聞いたぞ。ひと月も前より敵地に入って、一名の犠牲にえ
もなかったのは祝着しゅうちゃく
。・・・・して、義経の渡海を、いかがして、早く知ったか」 吾野余次郎が、一同に代って、答えた。 「陵助殿と別れてからは、わが殿のこと、万一にも、にわかな御渡海を見るおりは、かならず、陸路ここより屋島へ裏攻めのお胸に相違あらじと、一同、撫養むや
の宿しゅく を足場とし、毎日、この辺りを、物見し合うておりました」 「よう考えた。真ま
っこの通り、義経、ここへは出で来つるぞ」 「・・・・が、よもやと、今日の御見ぎょけん
には、ただただ、驚き入ってござりまする。ここ数日のあらし、昨夜とても、あのような海上を」 「それ、乗り越えてこそ、敵をも脅おびや
かし得ようというもの。人の越えうる日なら、およそこの道から、屋島へは近寄れまい」 「御意ぎょい
です。阿波国は今、手薄なりとはいえ、桜間さくらま
ノ助能遠すけよしとお は、豪の者。つねに、岬や道の見張りも、心しておりますゆえ、殿の御出勢あるも、いかがあらんと、お案じしていたところ、けさ、思いがけない黒煙くろけむり
を、吉野川の南に見 ── あれはいかに? と一同にて、眼まなこ
を凝こ らしたことでございました」 「オオ、桜間の火の手が、ここからも望まれたか」 「すわこそと、一同、雀踊こおど
りを覚え、かねて用意の馬匹に、物具やら糧かて
など積み、ここにお待ち申し上げていたわけでござりまする」 彼らは、三十人足らずの人数に、馬は五、六十頭もひいていた。 すでに船から上がるさい、廃馬としたのもあり、乗りつぶした馬もある。乗り換え馬の欲しいところだった。で、彼らの参加も、馬匹の補充も、僅々きんきん
百五十騎のこの一軍を、強めたことは、少なくない。 |