〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/14 (金) くさ ごと (一)

義経一騎は、掘りの外に馬を立たせたまま、なおそこに、じっとしていた。
「およそは、まもなくすもう」
と見ていたのである。
ここ、桜間の一攻めなどは、ほんの道草でしかない。
心せかれる行く手は屋島だ。
一刻いっとき も、片刻かたとき たりとも、時こそ、貴重につか わねばならない。
その讃岐の屋島までは、およそ、ここから十五、六里はあろう。山坂も多いという。
いかに急いだところで、今日のうちに行き着けるはずはなかった。夜来やらい の大風浪を海上にしの いで来て、馬も弱まり、人の疲れもはなはだしい。といって、時を費やせば、事が、先へ屋島へ漏れる危険は多分にある。
「やあ、ここにおいででしたか」
六、七騎。
堀際の北の道から、これへ駆けなだれて来た、田代冠者たしろのかじゃ 信綱のぶつな たち一群が、
「敵のあらましは、撃ち退 けましたが、桜間さくらま介能遠すけよしとお死骸しがい だけが見当たりませぬ。火中に身をとう じたらしい姿を見た者もなし、必定、逃げ落ちたかと思われまする。・・・・残念なとは、存じますが」
と、口々に嘆じた。
それには、義経も、はっと、
「あな、惜し、桜間ノ介を逃がせしか」
と、眸を空へやって、ふと、焦躁しょうそう の色を見せた。
「── 追ったか、すぐ、逃げ道を」
「されば、われらも、その姿を、あちこちに、駆け求めましたが、いずこへ せしものやら」
「見出せぬのか」
「いかがいたします、なお、追わせたものか、追わぬものか」
「追えば、手勢を分けねばならぬ。追わねば、桜間ノ介が、先を越して、屋島へ急を告げるおそ れなあろう。はて、どうしたものか」
つぶやいたが、しかし義経の眉は、
「ぜひもない」
と、すぐ迷いを捨てて、
「屋島へのみ、ただ、屋島へのみ、ひたむきぞ。同勢一つに、先を急ごう。── ここは、ただちに引き揚げよ。あとの始末、残る小者の敵などへ、懸け構いすな」
彼の命令が、丘へ伝えられると、まだ、燃えぬいている桜間の舘もよそに、武者たちはみな、馬寄せ場へ引っ返し、そしてまた、義経のあとについて、息つく間もなく、駆けつづけた。
義経は、自分の駒の直ぐ前に、降将の近藤六を、駆けさせたいた。道案内のためである。
「少しも早く、讃岐街道までみちび け」
と、案内の近藤六を、後ろから追いたてた。
それもまた、逃げ落ちた桜間ノ介を牽制けんせい する一つの手段として、考えられたからだった。
が、そうして走り走り、義経は、左右の味方を見て、時には、おかしそうに言ったことでもある。
「かくては、朝飯を食うひま だにないぞ。敵に敗れぬ面々も、腹の虫には、かぶと がぬものでもない。── 讃岐路へ出るまで、しばしこら えよと、腹の虫をなだ めおけよ、おのおの」
こういう冗談も、肉体の辛さを忘れさせ、ふと士気を愉しませた。列の先頭から後ろへ、どっと、笑いが波になって行った。
井上いのべ から吉野川を渡って、祖母ヶ島の河原へ立ち、すこし駒を休めて進むと、ほどなく讃岐街道に出た。
すると、はや、山せまる板野ごう 一帯の峰々をひかえ、そこのふもと の追分の辻に、一かたまりの人馬が見えた。
「や。あの武者は」
近藤六はあわてて駒を抑えた。
「敵か」
義経も、先を、見まもる。
そのとき、列の中から、深栖ふかすの 陵助りょうのすけ が、進み出て、
「味方の者です、お案じには及びませぬ」
と、どなった。
「なに。味方・・・・?」
それは、たれの口からももれた、いぶかしい気であった。── こんな所に、どうして、という怪しみなのだ。
けれど。
かなたの一群は、義経の軍たることを見きわめると、どこからか、白の小旗を取り出して、しきりにそれを振り抜いている。
「・・・・・さては、淡路の組か」
義経には、思い当たったようである。その微笑を、かなたの者どもへの答えとしながら、そのままゆるやかに馬を近づけて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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