「な、なに、敵が来たと?
ばかなことを」 北の小坪を前にした寝所の内で、桜間
ノ介すけ 能よしとお
遠は、笑っていた。 物音とともに、褥しとね
から跳ね起きて、彼もすぐ小具足を身にまとい着けたものの、 「── 敵といえば、源氏でしかあるまいが、淡路にも今は、源氏はおらぬはずだ。数日の大浪ゆえ、遠い難波なにわ
の源氏がと渡海して来るはずもない。何かの間違いぞ。うろたえるな者ども」 と、しいて落ち着き払っていた。 この能遠よしとお
は、まだ三十がらみ・紀き の一族中の、俊英だった。 彦島にいる兄の民部みんぶ
重能しげよし も、今、伊予攻めに出征中の田口左衛門教能のりよし
も、すべて氏うじ は 「紀き
」 姓「で、平氏でもばければ源氏でもない。 古くから当国一ノ宮の大粟神社の神職を兼ねていた土豪であったが、故清盛の恩顧にかえりみ 「── などか、平家の末すえ
を、見捨てらるべき」 と、一族、屋島へ味方したのである。 わけて、能遠の妻は、平家一門の内から嫁とつ
いでおり、その妻も今は、典侍の一人となって、屋島内裏に仕えていた。── そして良人おっと
の彼は、その豪気を恃たの まれて、阿波一国の留守と、讃岐さぬき
街道の要路を、小勢ながら、ここに見張っていたものだった。 「能遠よしとお
どの、何しておる」 しゃがれた年寄りの急せ
き込む声が、幾たびも、廊の外から叱咤しった
していた。 眷族けんぞく
の中の長老らしい老将で、 「仲間なかま
喧嘩げんか や、小さい裏切り沙汰ではないぞ。ゆゆしい敵だ、騎馬の影、白旗なども見えて来た。早う出合いなされ、柵さく
があぶない」 と、そこへ言い捨てて、たちまち、どこかえ駆け去った。 「はてな?」 なお、能遠には、解げ
せなかった。 手馴れの薙刀なぎなた
を手に ── 「なにやつぞ、ここを騒がす者は」 と、大庭から駆け出して行く間も、胸は、惑いにみちていた。 国中の要所には、とにかく、見張りはおいてある。特に、船着きの勝浦には、兵の小屋も備え、味方の近藤六が、つねに見守っているはずなのだ。 わけて、ここ数日は、あの大あらしと、海上の風浪である。どう考えても
「敵の襲来」 などとは、実感になって来ない。 しかし、その彼も、それからすぐ、義経以下の白五十騎を、現実に眼に見たのである。もう常識は、邪さまた
げになるだけだった。事実は事実に過ぎない。疑っている余地はない。 「不覚、不覚。ええ、しまった」 能遠は、一瞬、心の位置を失って ── 「おれとしたことが」 と、身をふるわせた。 敵をののしるよりも、自分の油断が、悔やまれて、 「このうえは」 と、すぐ討死を思った。 留守をあずかる身の責めにたいし、屋島の味方へたいし、恥かしさに、苛さいな
まれた。 その時。 ── すでに、義経は、掘りの向うへ来ていた。 駆けつづいて来る味方を、うしろに見、 「馬を捨てよ、人びと」 と、すぐ指令を下した。 「あの堀橋を、敵に固めさすな。さそくに、堀橋を奪って駆け渡れ。丘は、木の根や傾斜の地、雨上がりとて、駒脚も踏みすべろう。馬上はかえって不利。──
総勢、徒歩かち 立ちとなって攻め立てよ」 義経の声は、よく透った。 降将の近藤六は、どこをどう越えて行ったのか、丘の搦手からめて
から、丘の上の雑人長屋附近に現れ、そこらの建物へ、火を放った。 たちまち、火は、かなたの主殿しゅでん
へ燃え移っていた。炎の廂ひさし
の下、丘の中腹、柵さく の木戸など、いたる所に分裂していた十人二十人ずつの小合戦も、やがて源氏側の精鋭ぞろいの前には、一たまりもなく、潰つい
え去り、討たれ去り、桜間ノ介能遠の舘たち
一つへ、八方から攻め集まった。 |