〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/13 (木) しゅん   みん (一)

この朝まだき、桜間さくらますけ の舘では、まだ何も知らなかった、というよりも、多くの妻戸つまどしとみ戸閉とざ されたままで、夜来やらい の落花を せたもや の中の大屋根はまだ “── 春眠シュンミンアカツキ ヲ覚エズ” の姿であった。
さと では、桜間の城とここをいっているが、後の城郭様式のそれとはちがう。── 桜の多い小丘に、掘、さく などをめぐ らしてあるだけの、ただの豪族の住居にすぎない。
それでも、広い柵の内には、幾棟いくむね ともしれぬ土倉とか長屋壁なども望まれて、なおこの辺の土豪生活には、古い大家族制の余風ともいえる形があきらかにうかがわれる。
そして、それらの下部しもべ 長屋ながや には、いつもの朝と変わりない炊煙すいえん が立ちこめてい、牛馬を引き出す雑人ぞうにん たちだの、早起きな子どもや鶏の影も、ちょろちょろ見えた。
── すると何か、時ならぬ鳥群ちょうぐん の羽音が空に聞こえた。遠くの沼地から舞い上がったものらしい。それは幾組もつづき、黒い粉みたいに乱れて、満天に分かれた。
「・・・・・あれ、なんであろう、怪態けたい な?」
のみ子に、乳を含ませたままの下臈げろう の女房が、釜屋かまや の軒先へ出て、ぼんやり、空を仰いでいた。
突然、こんどは野犬やけん の声が一せいにした。それも丘の下よりはるかに思われたが、まずここの鶏が騒ぎ出した。鶏がそれを人間の長屋へ教えるかのようであった。
「出てみなされ、みなの衆。ただ事ではないぞえ」
下臈の妻も、鶏と一しょに叫んだ。
屋内の男どもも、さっきから 「何か、変だが?」 とは感じていたらしい。それっと、あちこちの荒壁の中から飛び出して来、丘の端まで、駈け乱れて行った。
が、そこまでも行かないうちに二、三の者が、続けさまにぶったおれ、頭越しにも地上にも、無数の矢唸やうな りが、翼を持った生き物みたいにどこからか飛んで来た。
「や、や。これは」
「どうした敵か?」
桃源とうげん のようなここの平和も、一瞬の間に修羅しゅら となった。彼らの仰天と女子どもの悲鳴は、まだ眠っていたかなたの大屋根の下をも驚かしたに違いない。にわかに、寝殿しんでん やらたい の戸があわただしげに開けられていた。しかしそこらのしとみ や雨戸へも、見るまに、無数の矢が突き刺さった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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