〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/13 (木) 死 中 ・ こつ けい あ り (四)

馬馴らし ── と聞いて、われもわれもと、義盛につづいて行った。しかし、強烈な戦意を抱く敵勢ではなかったらしい。おめ きも、矢うなりも、揚がらず、やがて三郎義盛が、敵将らしい四十がらみに男を囲んで、引き揚げて来た。
「いかにせしぞ、三郎」
馬上で待ちかまえていた義経の前に、敵の男は、降人こうじん の礼をとって、ひざまずいた。
義盛は、その男の背後に立って、
「あれなる岬の見張り小屋の兵が、今暁、われらの船影を見、驚いて、急をこれなる近藤六の館へ報らせましたので、何事か? と駆けつけて来たに過ぎず、お手抗てむか いの心はないと、誓いおりまする」
と、降将に代わって述べた。
義経は、眸を、その男の顔へ移して、
「平家方の、近藤六と申すか」
「はっ」
と、男は、かに のように、両ひじを張って、ひたいを、さらに地へつけた。
「── 当国、板野郷いたのごう の西に住む、近藤六郎親家ろ申す者にございまする」
「当所、名東郡の井上郷いのべごう には、花園城はなぞのじょう とて、平家の公達、越前三位えちぜんのさんみ 通盛卿みちもりきょう の所領があったはず。── 先年、鵯越えの合戦のさい、義経の手勢につい え給うて、討死をとげられたが、なお、その家臣たる残党どもは、この附近におるであろうが」
「いやいや、今はそれらの衆も、ことごとく、当所にはおりませぬ」
「いずこへ、散り失せしや」
「屋島へ召されたり、あるいは、河野四郎を攻ぬるため、田口たぐち 左衛門教能さえもんのりよし の軍について」
「では、花園城の者ども、みな、伊予攻めに、狩り集められて ったか」
「は。御意の通りでおざる」
「ほかには」
「さあ?」
「いまはあか らさまに告げん。われは判官義経ほうがんよしつね 。阿波より讃岐さぬき の国境を駈け通って、屋島を襲わんとする一陣にてあるじお。── もし、その途中に立ちふさがって、平家のため、われらに撃って懸からんとする平家勢のありとせば、それはたれとたれか」
「おそらく、君にうし を射て来るほどな、平家勢は現れますまい。しいて申すならば、これより西へ二里、桜間さくらま の城には、阿波民部が弟、桜間さくらま介能遠すけよしとお の一族がおりますゆえ、あるいはとも、存ぜられますが」
こも りおる人数は、どれほど」
「百騎にも足りませぬ」
「なぜ、さように少ないのか」
「先に申上げた通りです。ひでりの稲を刈るように、兵はみな伊予へ移して行きましたので」
「そうか。・・・・して、ここの地名は?」
日峰ひのみね のふもとで、勝浦かつうらとな えておりまする」
「勝浦」
ふと、義経は、耳寄りなと、いいたげな顔をしたが、すぐ笑い出した。
「── さても、この田舎武者が、式代しきだい (色よい挨拶、世辞などの意味) を申しおるよ」
「いえ、いえ、なかなか」 と、近藤六は、どす赤い顔を、よけい赤くしながら、あわてて、その顔の前で、手を振った。
「── 土地ところ のなまりでは、下臈げろう ことばに、かつらとは申しますものの、文字にてはまさしく、勝浦と書きまする」
「そうか、一定いちじょう 、勝浦とはおもしろい。── 聞かれたか、殿輩とのばら
と、義経は、見方の上をながめて、
夜来やらい の幸運なりしのみか、けさ、着いたる磯は、日峰の下、勝浦と聞いたぞ。── 今し、屋島へ せんとするわれらが、勝浦に着いたることのめでたさよ。いくさ は勝つの吉兆ぞ。勝つぞ、われらは」
と、大声に言うと、軍勢の中から、なんとはなしに、わっという気が立った。
「腹も きつろうが、朝のかて は、ひと働きしてから食おう。これより西へわずか二里、桜間ノ介の小館こやかた があると申す。蹴散けち らせ、人びと」
武者どよめきも消えないうちに、義経はなお、いいつづけた。そして、自身の駒を前へ進め、すぐ先頭を切って駆け出した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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