〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/09 (日) 死 中 ・ こつ けい あ り (二)

── ともあれ、やがて、義経以外の者もみな、
「あすのため、眠っておくに くはない」
と、胴の間の内側に、背をもたせて、うつら、うつの放心にまかせていた。
とは、していても、おりおり、逆浪の轟音ごうおん とともに、奈落ならく へ落ち込むような下降と強い傾斜に、はっ ── すると、思わず、みんな眼をあいてしまう。
── とたんに、あっちこっちで、ころがったり、何かへ頭を打ちつけたりした。そして言い合わせたように」、固唾かたず をのみ、不安な を見合わせるのだった。
するとたれか、そんな中で、クツクツ笑い出した者があった。余りの不安と恐怖の果ては、逆に、おかしくなることがあるものだ。日ごろに似合わぬ他人ひと醜態ぶざま滑稽こっけい でたまらなくなるばかりでなく、自分の心理も滑稽に思われてくるものらしい。 「なんと、人間とは、無力で、意気地ないものか」 という実証から沸いてくる自嘲じちょう であった。
「・・・・・・」
その妙な笑い声の中に含まれている皮肉なものに、義経の心も、ふとくすぐ られたとみえて、義経もまた薄目をあいて、にっと笑った ──やや であった彼の白い歯を見て、向こう側の弁慶も、にゆっと笑い、隣の土肥次郎実平も、声なく、相好そうごう をくずした。
もう、死も生も、何もない。
万雷に似たしぶきにも、怒濤どとう えにも、無感覚な人びとになっていった。どの影も、ただ、くたくたに見える。そして、この奈落ならく の底の辛抱が、長い月日のようであった。
── と、頭の上で、
「しめたっ、もう大丈夫」
「風は いだぞ」
「オオ、くが が見える」
と、口々に言うのが聞こえた。
大丈夫と、海の男たちが、ほっと、息をつきながら言ったのだ。
その一声は、どんな恐怖の刹那よりも強く、船底にいた人びとの耳をさました。
「な、なに、くが が見えると?」
思わず一せいに立ちかけ、同時にまた、よろい ひびきをさせて、鏘然しょうぜん と、みなしり もちをついた。
風は凪ぎ、夜は明けかけていたが、まだまだ、波まで静まったわけではなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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