〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/08 (土) 死 中 ・ こつ けい あ り (一)

その夜は ── 寿永四年二月十七日。
おそらく、夜半を過ぎていなかったであろう。
義経の船立ちを、十八日のうしこく (午前二時) とし、阿波国あわのくに勝浦かつうら (現小松島市) 附近まで、四時間にして着いたというのが、従来の諸書の説だが、いかに順風でも、狂瀾きょうらん 怒涛どとう の中を、そんな短時間で着いたとは思われない。誇張に過ぎて、ただ、奇蹟よいうだけのものになってしまう。
奇蹟は、予期できるものではない、兵法でもない。
少なくとも、兵学的な見地からこの挙に出た義経には、最も着実な計算が、頭にあったはずである。
── とすれば、十七日の宵には、もう渡辺を出ていたのではあるまいか。
事の間違いは “吾妻鏡あずまかがみ ” の記事からである。確実な史料と信じられている同書に 「── ウシ ノ刻ニ立ツテ、 ノ刻 (午前六時) ニ阿波国勝浦ニ着ク」 とあるところから、そして、神速であるほど、勇ましくも聞こえるので、古典はみなそのままを、伝承して来たものに違いない。
また、奇襲とか、夜討ちとかいうと、必ず “丑ノ刻” が付きもののように言われるが、義経の渡辺出発には、そんな時刻を選ぶ必要もなかったのである。
もし奇蹟を念じ、時刻を心にきざぬとすれば、ただただ、
「この船よ、つつがなく、かなたのくが に着いてくれ、また一時も早く ──」
と、いうほか、思いはなかったろう。
そして、行き着く先も、大ざっぱに、阿波国の東岸ぎらいとは、意図していたろうが、当夜の風浪では、どう流されて行くか、それもしか とは予測出来なかったに相違ない。
たの むところは、ともみよし に立って、必死な操作そうさ に当っている老練な舵手だしゅ や船頭たちの腕だけだった。
その船頭役には、荒海にも恐れを知らぬ鵜殿党の熊野男が、各船に乗り分かれていた。そして彼らの天性と経験のもとに、自然の猛威との闘いは、刻々、しのぎを削られていたのだった。
だから、これも偶然を期したり、無謀と知りつつ、船出したわけでは決してない。義経としては、信じて進むに足る理由が充分あったのだ。
それとまた、東国武者にも、海に馴れた者が皆無ではなかった。── いや一概に、東国武者は陸上の勇者だが、海上では平家武者に劣る者 ── という常識も誤りである。上総、下総、三浦半島、伊豆の海などは、すべて東国源氏の、ふるさとであり、千葉介一族、三浦の諸党、伊豆武者のたれかれなど、すべて、海辺の土豪であったといっていい。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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