その夜は
── 寿永四年二月十七日。 おそらく、夜半を過ぎていなかったであろう。 義経の船立ちを、十八日の丑
ノ刻こく (午前二時) とし、阿波国あわのくに
の勝浦かつうら (現小松島市)
附近まで、四時間にして着いたというのが、従来の諸書の説だが、いかに順風でも、狂瀾きょうらん
怒涛どとう の中を、そんな短時間で着いたとは思われない。誇張に過ぎて、ただ、奇蹟よいうだけのものになってしまう。 奇蹟は、予期できるものではない、兵法でもない。 少なくとも、兵学的な見地からこの挙に出た義経には、最も着実な計算が、頭にあったはずである。 ──
とすれば、十七日の宵には、もう渡辺を出ていたのではあるまいか。 事の間違いは “吾妻鏡あずまかがみ
” の記事からである。確実な史料と信じられている同書に 「── 丑ウシ
ノ刻ニ立ツテ、卯ウ ノ刻
(午前六時) ニ阿波国勝浦ニ着ク」 とあるところから、そして、神速であるほど、勇ましくも聞こえるので、古典はみなそのままを、伝承して来たものに違いない。 また、奇襲とか、夜討ちとかいうと、必ず
“丑ノ刻” が付きもののように言われるが、義経の渡辺出発には、そんな時刻を選ぶ必要もなかったのである。 もし奇蹟を念じ、時刻を心にきざぬとすれば、ただただ、 「この船よ、つつがなく、かなたの陸くが
に着いてくれ、また一時も早く ──」 と、いうほか、思いはなかったろう。 そして、行き着く先も、大ざっぱに、阿波国の東岸ぎらいとは、意図していたろうが、当夜の風浪では、どう流されて行くか、それも確しか
とは予測出来なかったに相違ない。 恃たの
むところは、艫とも や舳みよし
に立って、必死な操作そうさ に当っている老練な舵手だしゅ
や船頭たちの腕だけだった。 その船頭役には、荒海にも恐れを知らぬ鵜殿党の熊野男が、各船に乗り分かれていた。そして彼らの天性と経験のもとに、自然の猛威との闘いは、刻々、しのぎを削られていたのだった。 だから、これも偶然を期したり、無謀と知りつつ、船出したわけでは決してない。義経としては、信じて進むに足る理由が充分あったのだ。 それとまた、東国武者にも、海に馴れた者が皆無ではなかった。──
いや一概に、東国武者は陸上の勇者だが、海上では平家武者に劣る者 ── という常識も誤りである。上総、下総、三浦半島、伊豆の海などは、すべて東国源氏の、ふるさとであり、千葉介一族、三浦の諸党、伊豆武者のたれかれなど、すべて、海辺の土豪であったといっていい。 |