義経は、気づいていないわけではない。 それほどまでに自分を慕うてくれる者
── また旧恩もある余一のこと、連れて行きたいのはやまやまだった。 けれど、余一には、梶原
麾下きか の部将であり、彼の命で、渡辺陣へ先着していた者である。その梶原がまた、悪意に取りはしまいか。鎌倉どのの仰せによる軍編成を紊みだ
すものと誹そし りはしまいか、
「何か、よき口実もがな」 と、ひそかに惑っていたのである。 すると、楯囲たてがこ
いの船底から、伸び上がった顔の二つ三つが、 「あわれ、余一が切なるおん願いかな。── 殿、殿っ、かなえてやってくださいませ」 「武者は相身互いとか、お聞き届け給わりませ、わららよりも、お願い申し上げますれば」 そこには、土肥どひ
実平さねひら 父子がい、畠山重忠もいた。彼らも、梶原と反そ
りが合わず、宇治川戦の前後から身ままに義経の陣へ来てしまった者たちである。 当時の軍律や所属の制は、まだ後世ほど厳格ではなかったようだ。彼らの対しても、鎌倉表のとがめはなく、ただ、多少の揉め事が、現地で見られた程度に過ぎない。 おそらく、余一の場合にも、土肥や畠山と似たような梶原との不和があったのではるまいか。 船中の幕僚から、余一のため、口をそろえて、義経に懇願してくれたことは、義経にとっても、うれしかった。密ひそ
かに、許してやりたいとしているものを許す、よい理由になり、決断をとる声援の一つとなった。 「おう、土肥どのはじめ、人びとも、さまでに、連れよと申すなれば」 と、余一宗高の姿を、足もとに見て、 「みすみす、死地へ向かうこの小勢だが、望みにまかせ、同陣を許す。大八郎とともに、おるがよい」 と、ついに言った。 那須兄弟は、抱き合って喜び、船底の諸将も
「めでた」 「よかった、よかった」 と、その二人を、歓呼の中へまきこんだ。 まもなく、纜ともづな
は解かれた。 主将義経の乗船が、一番に出たのは、いうまでもない。 岸を離れるやいな、船は、山のような怒濤どとう
に迎え上げられたと思うとまた大波の蔭にかくれた。水夫かこ
の諸声もろごえ は、帆綱ほづな
や帆車ほぐるま にかけられ、帆の翼に、烈風が孕はら
むと、たちまち、船は腹を見せて、横ざまに、傾かし
ぎかけた。 しかし、風向きは、まさに真南だ、義経の胸にある目的地へは、順風といっていい。 波除なみよ
けの囲いのすき間から振り返ると ── 潮けむりを衝つ
いて続いて来る二番は、田代冠者信綱の船、三番、後藤兵衛ごとうひょうえ
実基さねもと 。四番、金子十郎家忠。五番、淀よど
ノ江内こうない 忠俊ただとし
の船などだった。 ── なお、遠くそのあとから、型の違う熊野船二十余艘が、波濤はとう
の間に、見え隠れしていた。鵜殿党、安宅党あたかとう
、九鬼党などの一手、例の輸送船団なのである。 空は、薄暮のころ、微紅を見せた西から次第にぬぐわれ出して、一方の天には、星さえキラめいてきた。 「万全なるは、かえって悪い。この狂瀾きょうらん
、この烈風は、むしろ倖せだ。おそらく敵も、よもやと油断しておろう。・・・・まず幸先さいさき
はよい。あすの備えには、ただ、少しでも眠っておくだけのことぞ」 倚よ
りかかって、まず義経から、瞼まぶた
をふさいだ。 かなたの陸くが
に着くまでは、船は風まかせ、水夫かこ
まかせのほかはない。── と、観念はみなしているものの、おりおり、横波の猛烈な衝撃をくうと、帆柱も船体も、乱離らんり
と砕けるような震動だった。そのたびに、ひざを抱えてうつ向いている面々の兜首かぶとくび
が、はっと、仰向いたり、薄目をあいて、そこらを、見まわしたりした。けれど、この中は真っ暗なのだ。ただ、人びとの鎧よろい
金具かなぐ が、潮の燐光りんこう
のように、キラキラするだけであった。 |