「小勢こそよけれ」 とは、初めからの主旨ではあった。けれど、この急場に間に合う船数とその積載量では、百五十騎以上の編成は、しょせん、無理だったのである。 その代わりに、歩卒は除き、騎兵だけの精鋭とした。いわゆる、鉄騎隊である。 そして大将、部将、武者たちは、五艘の大船に乗り分かれた。ふつう、兵船と称さるものの容積は、一艘三、四十人どまりにすぎない。──
平家方には、その数倍も乗せうる唐船型
の戦艦もあるが、源氏の水軍にはなかった。 しかも当夜は、荒海のことである。重量の無理は避け、三十人ほどずつ、五艘の船に乗り分かれたのである。べつに、馬匹は、馬船二十余艘、船隊を組んで続くことになった。 馬の輸送には、鵜殿党が、その任に当たった。荒海の怒涛どとう
をかぶると、馬は恐怖の余り体力もスリへらし、上陸後、すぐ合戦となる場合は、物の役には立たないので、船その物を、厩うまや
拵ごしら えにし、板で囲い、寝ワラの上に人間とともに寝て、馬の不安をかろくしたやるのである。鵜殿党の手下は、そんなことにも、馴れきっていた。 「──
人びと、用意はよいか。舵座かじざ
の者は舵かじざ に就け。帆綱の者は、帆支度せよ。次第よくば、纜ともづな
を解こうぞ」 一艘の舳みよし
の上で、義経が叫んだ。 が、その声も、烈風に吹きちぎられて、一語一語、口のそばから風の果てへ飛ばされて行く。 「── 殿っ。もいちど、執しつ
こく、おすがり申しまする。何とぞ、この余一宗高をも、お伴ともな
いくださいませ。御一陣の端に、おん供の儀、おゆるしのほどを」 その義経の足もとに、ふれ伏して、さっきから、訴えている武者があった。 彼の声も、風に持ってゆかれて、しぐまえのすぐ前の人の耳にすら届かないようだった。 が、その那須与一宗高は、何度も、おなじ叫びを、くり返していた。今ばかりではない。昼、義経の出勢と聞くやいな、余一は、すぐその帷幕へ出向いて、懇願していたのである。 彼のほかに、もう一名、やや離れた所に、平伏している武者も見える。──
弟の大八郎であった。兄弟、姿を並べているのだった。 |