と、飛脚した。決して、梶原を無視したり、思いつきの軽挙ではない旨を、達しておいたのである。 同時に。 田辺の湛増へも
「── 時節到来、今を外
さば、無用の加勢たるべし、すぐ、屋島へ来り会せよ」 と、早馬で催促した。 ── が、それらの外部的な手順よりも、 「さしずめ、たれとたれを、ひきつれて行くか」 の方が、帷幕いばく
におけるむずかしい問題となっていた。 昼の軍議に、義経が 「二の足を踏む者は残れ」 と、言ったことは、かなり諸将を刺戟したらしい。雑兵でない侍大将以上では
「残りたい」 と、口に出す者は、ほとんど、なかった。 「── さきには、無謀の御出勢なりと申したものの、判官ほうがん
どのが、一陣に立たれ、あくまで、船出せんと仰せある以上、われらとて何条、怯ひる
み申すべきや。おん供して、死出の先駆けま仕らん」 と、こぞって言う。 悲痛な容子ようす
は、おおえないが、言葉の上では、みな、臆病顔おくびょうがお
を見せられないものが、自然、その場を支配していた。 しかし、その勇には差があるし、われこそと望む、すべても心も、必ずしも一つではないことを、義経は、見逃してはいない。 「うれしい。・・・・うれしくは思うが」 と、義経は、かえって、それをなだめなければならなかった。 「申さば、義経は軽兵をもって、奇道を行くもの。大軍を引き具してゆくつもりはない。かちまた、ここの、あらましの船は破損して、にわかな修理はむずかしかろう。──
ただ、義経が名指す者のみ義経とともに参れ。── そのほかの面々は、船づくろいの出来次第、明石沖あかしおき
をへて、屋島の海へ進み出るがよい。── そのころには、海も凪な
ぎなん。もし、武運あらな、再会もしよう。またもし、義経が一勢いちぜい
、屋島の岸に見えずば、船諸共もろとも
、おぼれたか、敵へ襲よ するも、討たれおえたるものと、思うてくれい」 こう、一同を説いて、せの選抜は、彼自らが
“武者の簿ぼ ” から名を拾った。それは、わずか百五十騎に過ぎなかった。 |