〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-\』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十二) ──
や し ま の 巻 き

2014/02/06 (木) 非 奇 蹟 (一)

── まもなく、一つの指針が、命令となって。軍の上に示された。
雑兵たちの間には、驚きと、疑いと、恐怖に近い狼狽ろうばい が、右往左往の姿となって、ながらの別所を中心に、風雨の陣地を、駆け騒ぎ始めた。
「出陣だぞっ。── 出陣という触れ出しだぞ」
「えっ、いつ?」
「いつということはない。すぐ、出船の支度にかかれと、おれどもはいいつけられた」
「このあらしにか?」
「そっちの隊は、どうjなのじゃ。わい らの大将からは、まだ何も命令は出ていないのか」
「御出勢とは聞かぬが、屯々たむろたむろ の囲いはみな取り払え、兵糧ひょうろう も船へ移せ、馬や馬糧まぐさ も、すべて船へ ── と、まるで、足もとから鳥が立つような、てんやわんやだ」
「それみろ、今日にも、御出陣にちがいあるまいがの。えらいこったぞ」
「── よいっても、あれ見ろ、海のすご さを。川口へぶつけて来るあの大波をよ。・・・・どうして、船が出されるものか、出たら死出の旅だろうに」
縁起えんぎ でもない。不吉ふきつ は言わぬこった。だが、この空色じゃあ、まだまだ暴風しけ よう。そうなればまた御沙汰止みと変るかも知れぬ。荒れろ、もっと大荒れに ──」
部将の姪にそむ けば首だろうし、恐ろしい波濤はとう は天を っていた。足の裏さえ、とどろに感じる海の えと、雨を持った強風の中で、彼らのそれぞれな準備の仕事も、ただ何かに駆られて、うろうろ、やっているに過ぎない姿だったのは、無理もない。
百艘に近い大船小船も、ほとんどと言ってよいくらい、破損していた。──が、渡辺党の渡辺わたなべ むつる は、部下の地侍じざむらい を、手分けして、たちまち大勢の船大工や老練な船頭をここへ狩り集めて来た。
「まず、大船から先に、あらた めろ」
と、むつる は、その指揮に当って ──
こわ れた箇所は、どしどし修理なお してゆけ。また、いかなる大波にも、くつがえ らぬよう、とも の左右、二けん ほどの船べりには、巨材を添えて、いかだ 同様なたす けを造れ。・・・・何、何? むずかしいと。出来ぬことがあるものか、わい らはその年まで、海で生業なりわい をして来た者どもではないか。生涯の覚えを かして、どうにでも、荒波に耐える工夫くふう らしてみろ」
と、彼らの長年に得た体験を、うなが すのだったが、さすが年老いた船頭たちも船大工も、
「それの思案もなくはございませぬが、なんぼうでも、この暴風しけ に向かっての御渡海は、ちと御無理でございましょう。・・・・ちっとや、そっとのことでは」
と、首をかし げるばかりで、進んで手を下そうという気にもなれないらしい。
するとそこへ弁慶が見まわって来たのである。むつる と、何か一言二言、立ち話していたと思うと、船大工や船頭の群のそばへ来て、
「何を、ごてごて言っているのだ。渡海はむずかしいのなんのと申しておるそういだが、成る成らぬは、わいらの知ったことではない、わいらはただむつる 殿のさしずに従え。それともいやか」
と、大薙刀おおなぎなた を持ち直して、大勢の顔を、一つ一つ見まわした。
「・・・・・・」
いやというやつは、これへ出ろ。また、こころよ くやる者には、十日分の手当てを取らせよう。わいらに、命がけの合戦をせよなどと言うのじゃない。いいかせ ぎ仕事ゆえ、稼げと言うのだ。わからぬか」
一も二もなく、工匠たくみ や船頭たちは、仕事についた。長年の経験で、彼らには彼らだけの才覚はあるものらしい。しかしその工夫も、この風浪に対しては自信が持てない様子であった。
このほか、荒海には意気地ない馬匹を、どう輸送するか。馬糧、兵糧、武具などを、濡らさぬように運ぶには、どうすべきか。
熊野海族の将、鵜殿うどの 隼人助はやとのすけ は、
「それらのことは、拙者どもの手で、いたしましょうず」
と、進んで、任務を買って出。洋上の働きには熟練している隊である。また、隼人助の指揮下には、一人の弱音を吹く者もいない・
終日、ここはもう戦いに似た騒音と人の動きだった。
そのうちに、奇蹟ともいえる一つの僥倖ぎょうこう があった。日も暮れかけてのことである。西空の一端が紅く破れて、微かながらチカッと明日の晴れをきざ して来た。三日越しの雨は小やみを見せて来たのである。といっても、強風はやまず、怒濤どとう咆哮ほうこう と、龍巻たつまき のような飛沫ひまつ をあげて、夜の荒海は依然、その猛威を、天空てんくう の果てまで誇っていたのであったが ──。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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