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まもなく、一つの指針が、命令となって。軍の上に示された。 雑兵たちの間には、驚きと、疑いと、恐怖に近い狼狽
が、右往左往の姿となって、ながらの別所を中心に、風雨の陣地を、駆け騒ぎ始めた。 「出陣だぞっ。── 出陣という触れ出しだぞ」 「えっ、いつ?」 「いつということはない。すぐ、出船の支度にかかれと、おれどもはいいつけられた」 「このあらしにか?」 「そっちの隊は、どうjなのじゃ。汝わい
らの大将からは、まだ何も命令は出ていないのか」 「御出勢とは聞かぬが、屯々たむろたむろ
の囲いはみな取り払え、兵糧ひょうろう
も船へ移せ、馬や馬糧まぐさ も、すべて船へ
── と、まるで、足もとから鳥が立つような、てんやわんやだ」 「それみろ、今日にも、御出陣にちがいあるまいがの。えらいこったぞ」 「── よいっても、あれ見ろ、海の凄すご
さを。川口へぶつけて来るあの大波をよ。・・・・どうして、船が出されるものか、出たら死出の旅だろうに」 「縁起えんぎ
でもない。不吉ふきつ は言わぬこった。だが、この空色じゃあ、まだまだ暴風しけ
よう。そうなればまた御沙汰止みと変るかも知れぬ。荒れろ、もっと大荒れに ──」 部将の姪に反そむ
けば首だろうし、恐ろしい波濤はとう
は天を搏う っていた。足の裏さえ、とどろに感じる海の吠ほ
えと、雨を持った強風の中で、彼らのそれぞれな準備の仕事も、ただ何かに駆られて、うろうろ、やっているに過ぎない姿だったのは、無理もない。 百艘に近い大船小船も、ほとんどと言ってよいくらい、破損していた。──が、渡辺党の渡辺わたなべ
眤むつる は、部下の地侍じざむらい
を、手分けして、たちまち大勢の船大工や老練な船頭をここへ狩り集めて来た。 「まず、大船から先に、検あらた
めろ」 と、眤むつる は、その指揮に当って
── 「壊こわ れた箇所は、どしどし修理なお
してゆけ。また、いかなる大波にも、覆くつがえ
らぬよう、艫とも の左右、二間けん
ほどの船べりには、巨材を添えて、筏いかだ
同様な扶たす けを造れ。・・・・何、何?
むずかしいと。出来ぬことがあるものか、汝わい
らはその年まで、海で生業なりわい
をして来た者どもではないか。生涯の覚えを活い
かして、どうにでも、荒波に耐える工夫くふう
を凝こ らしてみろ」 と、彼らの長年に得た体験を、促うなが
すのだったが、さすが年老いた船頭たちも船大工も、 「それの思案もなくはございませぬが、なんぼうでも、この暴風しけ
に向かっての御渡海は、ちと御無理でございましょう。・・・・ちっとや、そっとのことでは」 と、首を傾かし
げるばかりで、進んで手を下そうという気にもなれないらしい。 するとそこへ弁慶が見まわって来たのである。眤むつる
と、何か一言二言、立ち話していたと思うと、船大工や船頭の群のそばへ来て、 「何を、ごてごて言っているのだ。渡海はむずかしいのなんのと申しておるそういだが、成る成らぬは、わいらの知ったことではない、わいらはただ眤むつる
殿のさしずに従え。それともいやか」 と、大薙刀おおなぎなた
を持ち直して、大勢の顔を、一つ一つ見まわした。 「・・・・・・」 いやというやつは、これへ出ろ。また、快こころよ
くやる者には、十日分の手当てを取らせよう。わいらに、命がけの合戦をせよなどと言うのじゃない。いい稼かせ
ぎ仕事ゆえ、稼げと言うのだ。わからぬか」 一も二もなく、工匠たくみ
や船頭たちは、仕事についた。長年の経験で、彼らには彼らだけの才覚はあるものらしい。しかしその工夫も、この風浪に対しては自信が持てない様子であった。 このほか、荒海には意気地ない馬匹を、どう輸送するか。馬糧、兵糧、武具などを、濡らさぬように運ぶには、どうすべきか。 熊野海族の将、鵜殿うどの
隼人助はやとのすけ は、 「それらのことは、拙者どもの手で、いたしましょうず」 と、進んで、任務を買って出。洋上の働きには熟練している隊である。また、隼人助の指揮下には、一人の弱音を吹く者もいない・ 終日、ここはもう戦いに似た騒音と人の動きだった。 そのうちに、奇蹟ともいえる一つの僥倖ぎょうこう
があった。日も暮れかけてのことである。西空の一端が紅く破れて、微かながらチカッと明日の晴れを兆きざ
して来た。三日越しの雨は小やみを見せて来たのである。といっても、強風はやまず、怒濤どとう
の咆哮ほうこう と、龍巻たつまき
のような飛沫ひまつ をあげて、夜の荒海は依然、その猛威を、天空てんくう
の果てまで誇っていたのであったが ──。 |