第二の使いは、酉
の刻こく (午後六時)
ごろ、馬をとばして、市ノ坂へ来た。 粉論の決着は。 ── 囚人めしゆうど
重衡は、奈良の地へは入れないこと。 ── 刑は奈良口においてすませる。 ── またぞろ衆人の蝟集いしゅう
なきうち、今夜、夜半のまに、断罪を果たすを可よ
しとする。 ── 執刀しっとう
は、東大寺、興福寺より、各一名ずつの法師武者を派して行う。 という寺令であった。 「さらば、すぐにも」 と、露ばかりがキラキラする真っ暗闇の道、十八町ほどを、人馬は、黙々と流れ出した。 奈良坂の上に出た。 坂の左に般若寺はんにゃじ
がある。 ここも、治承四年の奈良攻めのさい。重衡の部下が放火したので、善美な伽藍がらん
も、あとかたはなく、わずかに楼門、経蔵、寺房の一部が焼け残っているだけであった。 列が駐と
まる。 祐経は、真っ先に駒こま
を降りて、自身、重衡の馬のそばに寄って行き、 「降り召されよ」 と、静かに告げた。 重衡の眸め
は、彼の眸に会うたびに、無言の感謝を語っていた。 重衡は、兵に囲まれて、寺房へ歩いた。昼の夕立に濡れ、その破れ直垂ひたたれ
は、雑巾ぞうきん のように縒よ
れていた。 祐経は、いま死ぬ人のために、最後の交渉を、法師たちとの間に試みていた。 ── 故こ
太政入道だじょうにゅうどう 清盛きよもり
とて、悪行ばかりで世に寸功もなかったという人でない。その子、本三位ほんざんみの
中将重衡にも、いささかの寛恕かんじょ
と憐あわれ みがあっても、世人は、不当だといって怒りもしまい。 せめて、死者の餞別せんべつ
に、刑に臨む前、湯浴みを与え、身だしなみを許してやること。そして、最後の食膳しょくぜん
と、新たな死装束とを与えられたい。── 用意はわれわれにおいてするがと、黙許を求めたのであった。 「よろしかろう。まだ夜半までには、少々時刻もあることだ」 法師たちは、しぶしぶながら、承知した。 およそ、一刻ひととき
(二時間) 余り、祐経は、郎党の手も借らず、重衡の身の世話一切を、自分で勤めた。いや、湯殿では自分が戸の外に立ち、ひそかに千手を呼び入れて、千手に、その人の最後の垢あか
を流させた。 麻の肌着、水色の直垂ひたたれ
、その死装束も、千手がすでに、身に携たずさ
えていたものだった。 そして、さいごの髪も、彼女の櫛くし
でなで上げられた。 「時刻 ──」 と、表では、もう急せ
きたてる声がしている。執刀の法師武者も着いたらしい。 土器かわらけ
三ツ四ツ載の せた食膳が、わが前にすすめられるの見、重衡は、 「死に顔が悪うなるそうな。食事はいらぬ。ただ、冷たい水を一杯欲しいが」 と、望んだ。
それを飲み終わると、祐経、狩野介、頼兼、そのほか立ち合いの法師たちを、ずっと見て、 「今生、いかなる御縁やら、今日まで何かと温かなるお世話、かたじけなく思う。なお、そのうえなるお願い事ながら、重衡を斬る場所は、かなたに見ゆる一堂の廻廊にて、御執刀ごしっとう
くださるまいか」 と、言った。 法師たちは、重衡の意を測はか
りかねて、いぶかり顔を見合わせるだけだった。 重衡は、言葉を重ね ── 「去年、鎌倉へやられるおり、法然上人の御得度おんとくど
を賜って、獄罪人重衡も、念仏門の端くれたるを許された。したが、以後も凡夫の本相ほんそう
は改まるべくもなく、いよいよ煩悩ぼんのう
の子のままでおざる。せめては死ぬ寸前なりと、師上人のおことばの一つなりと、実まこと
に践ふ み申さねば相すまぬ心地がする。──
で、阿弥陀あみだ 堂どう
の廻廊を百歩ひゃっぽ 巡って、何遍なんべん
かの念仏を唱え申したいのです。・・・・百歩と数え切ったら、ただちに、重衡が身を一刀両断に斬って給われい。さだめし、涼やかならんと、夏の夜の贅沢心ぜいたくごころ
、さように思うのでおざる。お聞き届け給わるまいか」 |