〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/02/04 (火) はん にゃ り (二)

第二の使いは、とりこく (午後六時) ごろ、馬をとばして、市ノ坂へ来た。
粉論の決着は。
── 囚人めしゆうど 重衡は、奈良の地へは入れないこと。
── 刑は奈良口においてすませる。
── またぞろ衆人の蝟集いしゅう なきうち、今夜、夜半のまに、断罪を果たすを しとする。
── 執刀しっとう は、東大寺、興福寺より、各一名ずつの法師武者を派して行う。
という寺令であった。
「さらば、すぐにも」
と、露ばかりがキラキラする真っ暗闇の道、十八町ほどを、人馬は、黙々と流れ出した。
奈良坂の上に出た。
坂の左に般若寺はんにゃじ がある。
ここも、治承四年の奈良攻めのさい。重衡の部下が放火したので、善美な伽藍がらん も、あとかたはなく、わずかに楼門、経蔵、寺房の一部が焼け残っているだけであった。
列が まる。
祐経は、真っ先にこま を降りて、自身、重衡の馬のそばに寄って行き、
「降り召されよ」
と、静かに告げた。
重衡の は、彼の眸に会うたびに、無言の感謝を語っていた。
重衡は、兵に囲まれて、寺房へ歩いた。昼の夕立に濡れ、その破れ直垂ひたたれ は、雑巾ぞうきん のように れていた。
祐経は、いま死ぬ人のために、最後の交渉を、法師たちとの間に試みていた。
── 太政入道だじょうにゅうどう 清盛きよもり とて、悪行ばかりで世に寸功もなかったという人でない。その子、本三位ほんざんみの 中将重衡にも、いささかの寛恕かんじょあわれ みがあっても、世人は、不当だといって怒りもしまい。
せめて、死者の餞別せんべつ に、刑に臨む前、湯浴みを与え、身だしなみを許してやること。そして、最後の食膳しょくぜん と、新たな死装束とを与えられたい。── 用意はわれわれにおいてするがと、黙許を求めたのであった。
「よろしかろう。まだ夜半までには、少々時刻もあることだ」
法師たちは、しぶしぶながら、承知した。
およそ、一刻ひととき (二時間) 余り、祐経は、郎党の手も借らず、重衡の身の世話一切を、自分で勤めた。いや、湯殿では自分が戸の外に立ち、ひそかに千手を呼び入れて、千手に、その人の最後のあか を流させた。
麻の肌着、水色の直垂ひたたれ 、その死装束も、千手がすでに、身にたずさ えていたものだった。
そして、さいごの髪も、彼女のくし でなで上げられた。
「時刻 ──」
と、表では、もう きたてる声がしている。執刀の法師武者も着いたらしい。
土器かわらけ 三ツ四ツ せた食膳が、わが前にすすめられるの見、重衡は、
「死に顔が悪うなるそうな。食事はいらぬ。ただ、冷たい水を一杯欲しいが」
と、望んだ。
それを飲み終わると、祐経、狩野介、頼兼、そのほか立ち合いの法師たちを、ずっと見て、
「今生、いかなる御縁やら、今日まで何かと温かなるお世話、かたじけなく思う。なお、そのうえなるお願い事ながら、重衡を斬る場所は、かなたに見ゆる一堂の廻廊にて、御執刀ごしっとう くださるまいか」 と、言った。
法師たちは、重衡の意をはか りかねて、いぶかり顔を見合わせるだけだった。
重衡は、言葉を重ね ──
「去年、鎌倉へやられるおり、法然上人の御得度おんとくど を賜って、獄罪人重衡も、念仏門の端くれたるを許された。したが、以後も凡夫の本相ほんそう は改まるべくもなく、いよいよ煩悩ぼんのう の子のままでおざる。せめては死ぬ寸前なりと、師上人のおことばの一つなりと、まこと み申さねば相すまぬ心地がする。── で、阿弥陀あみだ どう の廻廊を百歩ひゃっぽ 巡って、何遍なんべん かの念仏を唱え申したいのです。・・・・百歩と数え切ったら、ただちに、重衡が身を一刀両断に斬って給われい。さだめし、涼やかならんと、夏の夜の贅沢心ぜいたくごころ 、さように思うのでおざる。お聞き届け給わるまいか」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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