〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/02/05 (水) はん にゃ り (三)

重衡の望みは れられた。
そこの阿弥陀堂といっても、辺りは、焼け跡の瓦礫がれき と、夏草の露ばかろだった。
夜半を過ぎて出た月が、堂の一角を蒼白く照らしてい、ここから十町余の奈良の町や、若草山わかくさやま のまろい線を模糊もこ と天地の絵絹に描き出している。
いま、重衡の姿は、堂の ちたきざはし を静かに踏みのぼった。
首斬り役の法師武者二人を後ろに、廻廊の角に立ち、奈良の町へ、眼を放った。
しいんと、鬼気をふくんだ静寂しじま が、彼のその白い影から辺りへひろがるかのように、一瞬、露の降る音も人びとの耳になかった。
「・・・・おう、遠いかなたに見ゆるは、大仏殿でん の焼け跡よな」
ふと、重衡はゆぶやいた。
月光の若草山を後ろに、大仏殿再建さいこん の高い丸太足場の上部が、あだかも、大盧遮那仏だいるしゃなぶつ の骨組みその物のように白々と見える。
重衡は、仏典の智識は持たない。けれど、華厳けごん法相ほっそう かと、それをながめた。大仏は、人間への憐憫れんびん と、四海の平和の祈りを、光明こうみょう 遍照へんじょうすがた具顕ぐげん したものとか聞いている。平和の祈りは、砕かれても砕かれても、再建される。幾たび、炎を浴びようと、地上のあるかぎりその燦然さんぜん を失うまい。
だのに、なぜ、再建した人間が、まや焼亡を呼ぶ人間となるのか。御仏はあえて身をもって、その愚を、何十年、何百年ごとに、健忘症な人間に教えているものかもしれない。
「いや、その愚は、それ一事ではない。父の清盛、一門のわれらまでが、みなひとしい愚をやってきた。だが、平家に取って代わって、源氏もまた、その愚を、地上に繰り返さねば世の倖せだが・・・・」
心で言って、次のは、自然、低い声となって出た。
「な、む、あ、み、だ、ぶ、つ・・・・」
称名しょうみょう の低唱とともに、重衡は、一 一歩、堂を巡って、歩み出した。
法師武者二人は、ぐっと、腰をひき、右の肩とひじ を、前へ落とした。太刀のつか を握ったのだ。そして、重衡の影に いて、ともに堂の縁を幾巡りしながら、
「十 ・・・・。三十歩。・・・・五十歩」
と、数えた。
「なむあみだぶつ。・・・・なむあみだぶつ」
重衡の影は、幾たびか、月明かりの中へ出、また月のない蔭を歩み、明暗の壁の添って通った。
北のらん の下は、特に暗かった。
そこの夏草の蔭に、千手と友時のふたりが、坐っていた。欄のすぐ上を、重衡が通るたびに、千手は身を浮かせて、はふり落つる涙の顔を仰向けた。重衡の が、にっと笑った。彼女の涙も、ほほ笑みに光った。
「── 百歩だっ」
後ろの太刀取りが叫んだ。
最後の念仏が、重衡のくちびる からも、千手と友時の唇からも、一語、やや大きく唱えられた。と思うせつなに、ふた筋の太刀の光が、びゅっと、重衡の体のどこかを通り抜けた。
ばたっと、重衡は、床にたおれた。血しおではなく、その体から、一匹のほたる が、ツイと飛んだ。そして、ひさし の裏へ舞い上がり、ゆらゆら行き迷い、ついと、風に中へ消えて行った。
「やあ、すんだぞ」
「事なく、太刀はすんだ」
法師武者二人は、大声でかなたへ怒鳴った。
どたどたと、たくさんな跫音あしおと が、駆け登って来た。祐経は、たれより先に、亡骸なきがら のそばへ寄って、片ひざをつき、 を合わせた。そして、あけ に染まった直垂の両袖を引きちぎり、一つを下の千手へ投げ与え、一つは自分の身に持って、
「委細のこと、つぶさに、鎌倉どのへ、御復命申すであろう。そのせつのしるし に、この御袖は、いただいて帰国いたす。同道の御房たち、執刀の方々にも、御苦労でおざった。まずは・・・・まずは」
祐経は、声をうるませ、急に、顔をそむけた。
── が、ふと下の草むらを見れば、そこからも、一つの亡骸なきがら がうつ伏していた。千手であった。
連れの友時には、あらかじめ、死後の頼みを、固く約しておいたものだろう。
重衡の死を見るやいな、彼女もすぐ自害したのである。しかし友時は狼狽ろうばい した様子もない。重衡の片袖に千手のくし と黒髪を包んで持ち、突然、その場から駆け出していた。他人の眼には、狂人とも見えるようなはや さで、月の大和路を北の方へ走り去った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ