ひと夕立、翔
けて通った。 大和街道も、木津川も、いちめんな白雨びゃくう
だったが、まもなく遠雷とおかみなり
の果てから夕映えが紅をひくと、急に、風は冷たいほどだった。 「雨宿りに、思わぬ時を費やしたぞ。さあ、出かけようか」 「今日は、陽ひ
の高いうちに奈良入りと、いわれていたのに」 軒端軒端を離れて、人馬は忙しげに、列を組み直し、木津の部落を立ちかけていた。 すると、興福寺の急使であった。法衣の上に腹巻はらまき
を鎧よろ った法師三名が、早馬を飛ばして来て、 「待った、待った。このまま、奈良の町へ入っては、どんな騒動になるやも知れぬ。しばし市ノ坂にて相待てという重源僧正のおさしずだぞ」 と、先頭の法師たちへ向かって怒鳴った。 「こは、いかなる仔細しさい
で?」 と、鎌倉方の護送使三名も、役目上、すぐ彼らのそばへ寄り合って、わけを訊たず
ねた。 急使の言は、こうである。 重衡受け取りと決まって、それが東大寺、興福寺の両長吏から披露ひろう
されると、大衆は 「これで、大犯だいばん
の極悪人を刑して、仏滅仏罰くぉ明らかにし得る」 と、乱舞して喜んだと言う。 そして、その日から 「刑の仕方は、どうする?」 と、寄り寄りいい噪さわ
ぎ 「火あぶりにしても、あき足らぬ。鋸引のこぎりび
きにするか、掘首ほりくび (土中に生き埋めとして、首だけを出しておき、最後に斬る)
にするか」 などと論じあった。 まず、興福寺附近の空地に、竹矢来を結ゆ
いまわした。そして、かつて重衡の軍勢に子や親や友を焼き殺された怨うら
みのある縁者、法縁の輩が集まって、なぶり殺しにしてやろうではないか。 「然しか
るべし、然るべし」 と、たちまちその刑場も作られて、なだ重衡の着かない前から、復讐ふくしゅう
に燃える衆徒は気狂いじみた眼をしている。 そのうえ、一昨日辺りから 「── 重衡到着は、六月二十三日」 と、聞こえたので、今日はもう刑場の周囲に、朝から黒山の人だかりである。 幸い、七刻ななつ
下さが り (午後四時すぎ)
から大夕立おおゆうだち をみたので、群集は一応、退散したが、夜空の星を見れば、また群れ出してくるだろう。そして、処刑以前に、どんな凶暴を演じ出すか分からない。それが、衆というもので、一個一個を単位としては考えられないが、雰囲気ふんいき
は、そうなっている。御仏みほとけ
の国奈良の古都が、悪鬼あっき
羅刹らせつ ばかりの古都になっている。 この凄愴せいそう
な空気を見 「これは不可いか
ん」 と、一部の心ある老僧たちから、初めて正論が吐かれた。 「── この有様は、刑でなくて復讐ふくしゅう
だ。一人を復讐に燃やしめてさえ、その応報と因果は、果てなく、人間界に一すじの業苦ごうく
の鎖を約束してゆく。まして、衆を復讐の念にかりたてなどしたら、どんな結果になろうか。それこそ重衡が犯した以上の大罪悪であろう。第一、僧侶そうりょ
が復讐に燃え、復讐に快を叫ぶ如きは、堕地獄だじごく
の極だ、みずから奈良を失うものだ。奈良全体の塔堂すべてを灰に帰しても、仏心さえ失わねば、いつの日か、また仏都を見られよう。仏を見失った奈良に、一体、何が残るのか」 と、言う声であった。 当然、猛烈な反駁はんばく
も起こった。 いよいよ、重衡の身柄が着くという今日の寸前になっても、なお、両論の対立は解けない。 興福寺の大講堂は、今や感情と、過激な言語とが、もつれ合って、収拾もつかない混乱に落ちている。──
それの一決をみるまで、奈良入りは控えてもらいた、ほどなく重源僧正の連署をもって、次の確実な沙汰が来るに違いない。──。 「まず、しばしの間、この市ノ坂辺にて」 と、興福寺の急使は、昂奮した眉で告げた。
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