ふと、堂の中で、重衡が身動きでもするらしい気配がした。 土壁の落ちた穴がある。その隙間
へ、内から背伸びした重衡の顔が見えた。月のせいか、貼は
り付けた仮面めん のようであった。 「・・・・?」 彼は、遠くでする琴の音に、ふと起って、その首を、体じゅうの毛孔けあな
で聞き澄ました。 琴の曲には、聞き覚えがあった。自分の好きな曲、妻の弾ひ
き馴れた曲である。── 仮面はふいに、表情をえがき、痙攣けいれん
を見せ、そしてさん然と落涙した。 去年、屋島に残したままの、妻の里は、この日野ノ庄だった。彼女の里家も法界寺から遠くない。 「さてはまだ、西海にも死なず、この日野ノ里へ帰っていたか。まこと、身勝手な良人おっと
の願いなれど、妻との仲には、幸いに、子もないことゆえ、重衡は一ノ谷で死せしものと思い、他家へ嫁とつ
いで、よい子をもうけ、よい月日を送ってくれよ」 重衡は、琴の音へ、心のうちで呼び返した。 しかし、夫恋つまこ
う琴の音は止みもしない。それは、弦いと
の音でなく、官能の咽むせ びといえよう。 「ああ、罪深いわが身」 妻は、大納言佐だいなごんのすけ
ノ局つぼね といった。その妻もいじらしい。──
また都の恋人、右衛え 門佐もんのすけ
ノ局つぼね は内裏だいり
に仕えている。彼女も、痩や せるような想いの歌を、鎌倉へ送って寄こした。 それさえ、すまない心なのに、その上になおお千手を愛した。なんたる浮かれ男じみた業わざ
か。女を玩もてあそ ぶものとののしられても仕方がない。われながら浅ましいことだ。なんと唾棄だき
すべきこの男だろう。思えば自分の死のみが、妻をも都の恋人をも千手をも、救うことであるかもしれない。いや救うと言っては言いすぎだ。申し訳であると言おう。 ふと、しめやかな跫音あしおと
を、外に聞いて、重衡は顔を引きかけた。が、月明かりに見えた後ろ姿は、工藤祐経と分かって、その背へ、じっと眼をこらした。 祐経は、山門道から横へ曲がって、小高い台地へ登って行った。上に立つとすぐ、姿をどこかへ消した。しかし、みちびかれた重衡の眸は、そこに琴を弾いている一人の上臈じょうろう
と、女童めわらべらしい人影を知った。 重衡は、凝視ぎょうし
していた。が、しばらくたつと、また、以前の所に、祐経の姿が立ち、同時に琴の音は絶えた。琴とともにあった女性と女童の影も、夜風と化け
して見えなくなった。 |