〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/02/02 (日) ゆ か り の 人 び と (四)

ふと、堂の中で、重衡が身動きでもするらしい気配がした。
土壁の落ちた穴がある。その隙間すきまこ へ、内から背伸びした重衡の顔が見えた。月のせいか、 り付けた仮面めん のようであった。
「・・・・?」
彼は、遠くでする琴の音に、ふと起って、その首を、体じゅうの毛孔けあな で聞き澄ました。
琴の曲には、聞き覚えがあった。自分の好きな曲、妻の き馴れた曲である。── 仮面はふいに、表情をえがき、痙攣けいれん を見せ、そしてさん然と落涙した。
去年、屋島に残したままの、妻の里は、この日野ノ庄だった。彼女の里家も法界寺から遠くない。
「さてはまだ、西海にも死なず、この日野ノ里へ帰っていたか。まこと、身勝手な良人おっと の願いなれど、妻との仲には、幸いに、子もないことゆえ、重衡は一ノ谷で死せしものと思い、他家へとつ いで、よい子をもうけ、よい月日を送ってくれよ」
重衡は、琴の音へ、心のうちで呼び返した。
しかし、夫恋つまこ う琴の音は止みもしない。それは、いと の音でなく、官能のむせ びといえよう。
「ああ、罪深いわが身」
妻は、大納言佐だいなごんのすけつぼね といった。その妻もいじらしい。── また都の恋人、右衛 門佐もんのすけつぼね内裏だいり に仕えている。彼女も、 せるような想いの歌を、鎌倉へ送って寄こした。
それさえ、すまない心なのに、その上になおお千手を愛した。なんたる浮かれ男じみたわざ か。女をもてあそ ぶものとののしられても仕方がない。われながら浅ましいことだ。なんと唾棄だき すべきこの男だろう。思えば自分の死のみが、妻をも都の恋人をも千手をも、救うことであるかもしれない。いや救うと言っては言いすぎだ。申し訳であると言おう。
ふと、しめやかな跫音あしおと を、外に聞いて、重衡は顔を引きかけた。が、月明かりに見えた後ろ姿は、工藤祐経と分かって、その背へ、じっと眼をこらした。
祐経は、山門道から横へ曲がって、小高い台地へ登って行った。上に立つとすぐ、姿をどこかへ消した。しかし、みちびかれた重衡の眸は、そこに琴を弾いている一人の上臈じょうろう と、女童めわらべらしい人影を知った。
重衡は、凝視ぎょうし していた。が、しばらくたつと、また、以前の所に、祐経の姿が立ち、同時に琴の音は絶えた。琴とともにあった女性と女童の影も、夜風と して見えなくなった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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