〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/02/02 (日) ゆ か り の 人 び と (二)

狩野介や頼兼にしても、特に、重衡を憎む理由は何もない。幾月かは、わg屋敷に預った縁もあるのだ。あと一両日の生命の人と分かっているだけに、憐れでならなかった。出来ることなら、今のうちに、なんなりと、してやりたいとさえ思っている。
護送使たちの心は、暗黙に一致していた。ほどなく、大津の宿所へ入った。
その晩、奈良法師らの五人は、護送使から、上座におかれて、ねぎらわれた。 「旅もあと二日足らず」 と、彼らも心をゆるしたか、深更まで食べ酔って、法師らの田楽歌でんがくうた手拍子てびょうし まで奥に聞こえた。
すると、その酒盛の最中さなか である。
席を抜けた工藤祐経は、重衡のいるほの暗い一室へ、そっと見まわりに来た。そして、番の郎党たちへ 「おまえたちも、しばらく、寝小屋へ退さが って、酒でも飲むがいい」 と、遠ざけた。
番士らが去ると、彼は縁の橋に出て、紙燭しそく を振った。── と、それを見て、中庭の木戸から、木蔭の闇を這うように、縁へ近づいて来た男女がある。
祐経は、声をひそめて、二つの顔へ、
「余り長い間は許されぬ。ほんのつかのまぞ。よいか」
と、いいふくめ、紙燭をあずけて、立ち去った。
小さい灯の揺れをそばにおいて、二人は、祐経の影を伏し拝んだ。それは、放下僧ほうかそう の兄妹だった。いや、重衡の旧臣の友時と、千手せんじゅ であった。── 祐経も狩野介も、旅の途中から、すぐ知っていたのである。
夏の夜の暑さを、風も通さぬ の内に閉じ込められ、ただ蚊うなりを友としていた重衡は、そこに動いた灯影と白い顔を見て、愕然がくぜん と、眼を らした。
「やっ、千手?・・・・。千手ではないか」
「殿っ・・・・殿」
「おう、友時よな」
「ああ、お目にかかれました。ふたりの一念が届いて」
「なつかしや、夢ではないか。千手よ、友時よ。内へ寄れ、その顔、近う見せてくれい」
奈良法師の田楽歌でんがくうた の声が、遠くでしていた。その歌詞は、野卑で滑稽こっけい だった。── しかし、ここの の内では、ひとつに抱き合った三つの生命が涙と涙にむせ んでいた。許された時間はほんのわずかだったが、その哀歓あいかん は甘く、心のちぎりは永劫えいごう を感じていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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