四年の、六月半ばの頃であった。 海道筋の三島
の森蔭で、しばし休んでいた旅装の人馬は、炎天下を一列に、ふたたび西へ指して、ぽかぽかと、乾いた道をふんで行った。 ── はからずも、その中の一頭の馬の背に、重衡の姿が、見出される。 彼の消息が絶えてから、およそ八ヶ月目であった。 それまでは、どこにいる日も、身だしなみ清々すがすが
しい重衡だったが、海道の埃ほこり
や陽焦ひや けのせいばかりでなく、まったく変わり果てた彼に見えた。 いくぶん、頬も削そ
げたかに思われる。あご髯ひげ
まばらに、垢あか びかりした襟えり
あしへ、汗の斑まだら が浮いて見え、あの千手せんじゅ
が、よく櫛くし の歯を入れるごとにその艶つや
やかさに見恍みと れた黒髪も油気すらなかった。古直垂ひたたれ
に破や れ袴ばかま
、そして、革足袋の足をじかに馬のあぶみへ懸けている ──。 海道を上下する旅人は多いが、これを重衡と気づく者はおそらくなかろう。まして、故入道清盛の五男の君と、たれに想像も出来ようか。どう見ても、ただの流人るにん
か市井しせい の一罪人としか振り返られまい。 けれど、彼の眸は、なんに恥ずる色もなかった。 やがて、磯松原ごしに、近々と、夏富士の姿を仰ぐと、なつかしげに、ふと何事も、忘れ顔だった。 この六月、彼の身柄は、ついに南都へ渡すと決まったのだ。で、これは奈良まで、護送使にひかれて行く彼の生き身の葬列だったわけである。 それまでの牢舎の月日を、重衡はどこに押し籠こ
められていたことか。すでに鎌倉どのの打算的な慈悲とは縁なき一囚人いちめしゆうど
とされ、冷たい獄飯ごくはん に露命をささえられて来たものにはちがいない。その皮膚には、垢あか
を積み、汗をたたえ、獄ごく の臭にお
いを持っていた。いやその体臭の中には虱しらみ
すら住んでいそうな姿だった。 けれど、浜風に心を吹き洗わせ、富士を眸め
にしている彼には、そのどこにも、卑屈めいた暗さはなかった。といって 「── 俯仰ふぎょう
天地に恥じず」 などと力りき
んでいるふうでもない。ただ、風のまにまにである。命を天に任せ切っている姿なのだ。そしておりおりには、路傍の老人や子どもらを見かけ、ふと、ほほ笑みなどこぼしながら、列とともに行く彼であった。 |