院の言質
を取ると、彼らは、転じて、鎌倉を相手どり、再三、使者をして 「── 重衡の身は当方へ渡して欲しい」 と直接、頼朝へ食い下がった。 だが、関東の府は、院とは違う。彼らの尊大そんだい
な要求ぶりは、ひどく鎌倉方の感情を刺激した。 「奈良坊主の不遜ふそん
な口上。今後もあれば、このさい、武府ぶふ
の御威厳を、はっきり、お示しおかれるがよい」 という意見が圧倒的だった。 頼朝も同意見だった。けれど平家の轍てつ
を踏むような愚は極力避けた。 「いずれ合議の上にて」 とか、 「不日御返牒ごへんちょう
申す」 とか、いつも、態てい
よく使者を追い返してきた。 ── とは言え頼朝が、以後も心から重衡を庇護ひご
していたということではない。 むしろその反対であった。 あくまで、平家絶滅を期している彼は、その間にも追討軍の急展開を止めてはいない。そして翌年四月には、壇ノ浦の合戦をさいごに、目的を完遂していたのである。 ──
つまり、重衡の身は、それを利用する目的で生かしておいたのだが、西国における源氏の着々たる大捷たいしょう
の結果、利用することもなく終わったと言うに過ぎなかった。 ── 当然、鎌倉のには新しい権力意識が興りつつあった。僧団の圧力に屈して、重衡を渡したと言われるのは彼らの意地が許さないし、また
「鎌倉殿が情けをかけおかれたるお人」 とたれも知る重衡の中将を、すぐ突っ放したと聞こえるのも、世間体にはばかられた。 では依然、重衡は鎌倉の庇護と、前通りな優遇を受けていたかといえば、これは大いに違ってきた。南都の抗議がうるさいうえに、頼朝としても、はや
「用なき者」 と見たのであろう。千手せんじゅ
ノ前まえ と引き離してから、およそ一月ほど後、つまりその年の秋、身柄はひそかに他へ移されていた。 ほかとは、どこへ? 以後、重衡の移された場所は、どうも、定かに分かっていない。 鎌倉中の内ではあろうと人びとは言った。ところが、伊豆の蔵人大夫くろうどのたいふ
頼兼よりかね の手で伊豆へ移されたという説もある。また、重衡の中将の隠された先は、鎌倉山の土牢つちろう
の一つであると、臆測おくそく
する者もあった。 が、重衡がなお、翌年六月までは、この世にいたことだけは確実である。 翌年六月といえば、すでに平家一門は壇ノ浦に亡び去った後であった。──
で、重衡の死までを見てゆくには、その間の半年余りを超こ
えて平家滅亡後の先を書いてしまうことになる。 便宜上、ここはその方法に従おう。要するに、重衡に関する話だけは、一足飛びに、翌、寿永四年へ飛ぶわけである。
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