その後、重衡の処分に関しては、院と鎌倉との折衝のほかに、奈良法師の容喙
が加わって、事は一だんむずかしくなって行った。 いつの場合でもだが。 叡山えいざん
や南都が、政治にくちばしを差しはさむと、事態は必ず紛糾ふんきゅう
する。こんどもまた、そうだった。 「重衡の中将こそは、年来、ともに天をいだかじとしているわれらの怨敵おんてき
。それをなんぞや、院や鎌倉の手ぬるい処置に任せておいてよいものか」 彼ら特有な権威の自負も手伝って、不満は表面化し、やがて大衆の僉議せんぎ
とまでなった。 「それよ、かつての日、平家の暴兵に見舞われ、大仏殿以下七堂しちどう
伽藍がらん を焼亡し、僧俗千余の黒焦くろこ
げのかばねを出したのは、院でもない、鎌倉でもないわ、我ら南都の大衆ではないか」 「その南都が、なんの諮はか
りも受けず、しかも、当時の悪大将重衡は、関東へ引き渡され、あまつさえ鎌倉では、ひそかに優遇されていると聞く」 「言語道断な沙汰。よろしく、悪魔重衡の身柄は、我らの手に請こ
い受けて、罪科を責め、報むく
いのほどをも、思い知らしてくれねばならん」 「仏天の処罰は、仏者を除いて、余人に委すべきではない。重衡の処置は、断じて、南都で執と
り行え。他山の聞こえもあることぞ」 結論は、やがて、上訴の形をとり。物々しい彼らの代表者は、何度も都へ出て、院へ迫った。 「── 重衡を当方へ引き渡されたい。南都の合意なき処分は一切不当である。さなくば、大衆の激昂げきこう
、いかなる事態に及ぶやもはかり難い」 と、半ば脅迫的である。 例によって、院では、彼らをなだめるだけで、説き伏せる力もない。何よりは強訴ごうそ
騒ぎが恐こわ いし、叡山や園城寺おんじょうじ
も、この問題では、南都を声援している形勢がある。たびたびの訴えに、持て余した院では、近臣の泰経やすつね
が、法皇の仰せ出しと称して、こう答えた。 「もともと、重衡どのは、一ノ谷の虜将とらわれ
なれば、院が御処分をとる意志は毛頭なかった。しかるに、鎌倉方の執拗しつよう
な求めにより、南都の意向を問う暇もなく、関東へ下げ渡したが、しかしそれ以後の処置は、院のあずかり知るところではない。今や、重衡一身の生殺せいさつ
与奪よだつ は、鎌倉の手中にあれば、直々じきじき
、鎌倉へ交渉してみたがよい。どうなりと、両者の間で解決されるがよろしかろう」 |