「──
千手 どの。あちらで。おあるじが召されますぞ」 友時に会った日から、やがて数日後のことである。 狩野介かのうのすけ
の家来が、橋の廊口の向こう側から、呼んでいた。 しめやかに二人でいた簾す
の間ま から、彼女は姿を現し、すぐ、家来のあとについて行った。 だいぶ長い間だった。 ようやく、千手は、重衡の前へ戻って来たが、ひと目見て、重衡は、はっとした。 「──
さては」 と、ある予感に、胸をつかれたからであった。 どこかで、泣きたいだけ泣いて来たに違いない。瞼まぶた
が紅あか く腫は
れあがっている。それを化粧し直して、心の落ち着きも、ひとりで、なだめて来たのだろう。── 重衡の前では、もう取り乱すまいとしている姿だった。 「千手。狩野介どのから、いかなる話があったのか」 問われると、眉も唇くちびる
も、すぐ、わななきかけたが、ごくと、胸にのんで、静かに、 「殿。・・・・お別れの日がとうとうまいりました」 「では、申し渡しは」 「今日限り、暇をつかわす。亭を去って、自分の宿へ帰れとの仰せつけでございました。鎌倉どのの御命だそうです。・・・・立ち去らなければなりません」 「ああ、もとより、いつかはこの日が来ることは分かっていたが」 「せめて、お名残に、今宵のみはと、おすがりしてみましたが、それもい相ならん、昨日より、奈良の使僧が、鎌倉どのの許へ参って、きびしく申し張りおるゆえ、即刻、立ち去れいと、慈悲も情けもないおしかりでした」 「な、なに。奈良の使僧が、この鎌倉へ来ておるとか」 「それも、初めてのことではなく、興福寺、東大寺の奈良法師が、打ち連れて、南都の訴状とやらをたずさえ、鎌倉どのへ迫って、重衡の中将どのの身柄を、引き渡してほしいと強訴ごうそ
するのだそうでどざいまする」 「・・・・そうか、いや、ありうることだ」 「それらの法師が、ここの様子を知って、大仏殿だいぶつでん
焼き討ちの総大将、しかも生捕いけど
りの囚人めしゆうど に法外な住居を与え、あまつさえ、遊女あそびめ
を側にゆるしおくなど、言語道断な ── と、ひどく怒っておりますそうな」 「もっともだ」 と、重衡は、うっすらと微笑をたたえ、 「彼らに言わせれば、八ツ裂きにしても飽き足らじと憎んでおる仏敵の重衡。それや心外な沙汰に違いない。・・・・また、そなたを、側から離せといわるる鎌倉どのの困り方もよくわかる。いずれにせよ、千手、おたがいは、今日の来るのを覚悟でいたはず。・・・・恨むらくは、なんと、みじかい月日であったことか」 「いいえ、わたくしには、そうとも思われませぬ。月の光も粗末にすなと、殿が、仰っしゃいましたので、どんなつかの間も、しみじみと、味わうように、毎日を愉たの
しんで暮してまいりました。・・・・生まれてから十九年の月日よりも、ここの二た月ほどの方が、百年千年にもまさる幸福な日でございました」 「よういうた。別れは憂う
いが、それを聞いて、重衡はうれしい。後々までも、心に充つるものがあろう。そして、いささかの悔いも持つまい」 「では、おいとまを」 「もう行くのか」 「橋の懸かりの向うで、狩野介どのやら家来方が、輿こし
を支度させて、待っておりまする」 「はて・・・・急な」 さすがに、重衡も眉をかき曇らせた。 じっと、身を耐えて、彼女が、住み馴れた彼女の居間にかくれ、またやがて、そこから廊へ出て行く姿を見ていたが、世の常のような
「── 身を大事に」 とか 「永いあいだの世話」 とか言うような、ありふれた言葉は、口にも出なかった。 ふと、思ったのは、いずれ近い日のうちに、千手が歩いた廊から橋の懸かりを、自分もまた歩いてここから出されるであろうということであった。そして、千手とは、ふたたび、この世で相見ることはおそらくあるまい。幸福に生きてゆけよと、無言の祈りを眸に持つだけであった。 |