友時のそれは、彼が随時に書いておいた見聞の覚えだった。もちろん重衡に知らせたいために書いたものである。つまり彼の消息代りといってよい。 重衡が、都を去り、東国へ送られた日からの出来事が、何くれとなく、書いてある。 ──
まず、主な事件を読み拾えば。 都では、四月十六日に、改元令が出て、寿永三年は、 元暦
元年 と改められているということ。 ただし、これも都と関東だけに限られよう。平家方では、安徳天皇を立てていることなので、依然、寿永の年号を追って行くに違いなく、一つ日本の中に、二いろの年号を称よ
ぶという奇異なわずらわしさを生じてしまっただけに過ぎない。 まことに、嘆かわしいことです、先々、世の末も思いやられて ── と、友時は書き添えていた。 次に、屋島の平家側の動静については。 どうも、都では、よく分かりません。 と、その中で正直に言っている。 ただ確実なことは。 いよいよ戦備をかためていること。いかなる場合も、神器奉還の交渉には応じぬとする気勢がみえること。 浮き沈みは、天にまかせ、西国を足場に、一門運命を共にするの決意は、平家方に一倍、昴たか
まっているという見方を、院でも取っており、法皇にも、そのお覚悟で事に臨んでいるらしい、ということだった。 それから、重衡を驚かせたのは、一門の小松三位こまつさんみ
維盛これもり の死であった。 その維盛は、三月下旬、屋島を抜け出し、高野山こうやさん
へのぼって、そこで出家したが、なお心の安住を得られなかったものか、熊野へ行き、やがて、那智なち
の沖に身を投げてしまったという。 「小松殿らしい・・・・」 と、重衡は愍笑びんしょう
をおぼえ、 「そのようには、果てたくないもの」 と、つぶやいた。 重衡の胸にはつねに思うともない自分の “死の構図” が描かれていた。 「そのように果てたくない
── 」 とする彼の対象として、もう一人、一門の中から変わった経路をとった人物があった。 それは、一門都落ちのまぎわに、寝返りを打って、後に、頼朝を頼って東国へ下向してしまった池ノ大納言頼盛である。 友時の聞き書きは、その頼盛こことにもふれ、近ごろ頼盛について、次のような取沙汰を伝えていた。 |