池ノ大納言頼盛は、いわば雁
の列から脱けた、離れ雁だった。しかし、彼は彼の列にたくさんな一家眷族けんぞく
を連れている。 もとより、頼朝の方から、 「東国へ下くだ
り給え。池ノ禅尼の御恩報じ、行く末、お力になり申さん」 という勧すす
めがあって、下向したことだが、鎌倉へは、すぐ入らなかった。 海道の国府津こうず
に、一館をもらい、去年十一月からそこに住んで、年をこえた。 しかし、家族を国府津において、彼のみは、鎌倉の府へ来たこともある。 初めて、頼朝と会った時、頼朝の方から、 「御家臣のうちには、たしか、弥兵衛やひょうえの
宗清むねきよ と申す者がいたはず。頼朝が十三歳のおり、捕われの身を預けられたおりの番士が、その宗清であった。少年のわれを憐れみ、朝夕の世話など、わが子のようによくしてくれたものだが・・・・あの宗清は今、どうしていますか」 と、訊たず
ねた。 頼盛は、うつ向いてしまった。 彼の答えがないので、 「さては、はや年も年、病死でもして、相果てしか」 と、訊き
き直すと、頼盛は、面目なげに、 「いやいや、あの宗清は、われらが、西国落ちを拒んで、東国へ身を寄せんという旨むね
を聞くと、自分の方から、暇いとま
をくれいと申し出で、ただ一名にて、一門のあとを追い、西国へ従つ
いて行ってしまいました。たぶん今も、屋島の内におりましょう。・・・・とこどき思い出さるる者でございますが、世に、家来から暇を出された主人は、この頼盛一人でありましょう」 と、淋しげに笑った。 頼朝も、また、 「それは惜しいことをした。耳の清まるような宗清の生き方ではある。したが、もし、ここに彼がいたら、どんなに、むかし語りに花が咲こうものを」 と、つまらなそうな顔をした。 けれど、宗清を惜しむの余り、それのこだわるのは、何か頼盛の立場を諷ふう
するようで、せっかくの馳走ちそう
も馳走にならなくなると気づいたのか、頼朝はそれきり、酒間にも、宗清の話にはふれなかったそうである。 しかし、頼朝が、旧恩にむくうためと口ぐせに言って、池ノ禅尼の実子頼盛を、この平家が不運のさいに迎えとって、手厚くもてなしたことは、およそ、なみたいていな心尽くしではなかった。鎌倉詰めの御家人衆からそれを見ると、むしろ意識的な、これ見よがしの御待遇かと、ひがまれるほどだった。 |