〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/30 (木) 輿こしかよ (二)

やっと西日が薄れかけた。
重衡は、みずから蚊遣かやり き、亭の縁の角へ、円座えんざ を持ち出して、夕風を待った。
七日目に一度のことだが、千手のいない日のなんたる空しさだろう。すでに死の座にあるも同様な生命に、こんな恋の花が結ばれるとは皮肉である。自分は死に花ともしようが、若木の彼女はどうなるのか。
欄に って、ぼんやり、白い綿虫のむらがりを、宙に見えすいていると、やがて帰って来た千手が、
「ま、こんな所においででしたか」
と、すぐ彼のそばへ来て坐った。
あの夜以前のふたりとは、馴々なれなれ しさも、どこか、自然に違っている。
「おう、千手か、何やら息ぜわしいような」
「でも、ここへ帰って来るなり、あちらのお部屋をのぞいても、蚊うなりだけで、どこにもお姿が見えないではございませぬか。何やら、どきっとしてしもうて・・・・」
「重衡が池へ身でも投げたかと思うたのじゃな。はははは、そなたに会わぬうちなれば知らぬこと。なんでわれから一夜の命でもちぢめよう。・・・・それはそうと、いつになく、今日は帰りが早かったではないか」
「ええ、梶原様には、もう、鎌倉にはおられませぬそうな」
「ほ、景時が」
「再度、西国への御先発を命ぜられたとかで、留守の御家臣から、以後は七日目ごとの出頭も止めてよいと、言い渡されて、戻りました」
「そうか、それは重衡にもありがたいことだ。そなたのいない日は、何も手につかず、空蝉うつせみ に似たようなわが身だが、これからは」
「一日もおそばを去らずにおられまする。一日よても」
「ふたりの一日は、人の月日の一年にもあたろう。のう、千手。その一日一日を、あだには暮すまい。月の光も、ていねいに身に味わおう」
「うてしゅうございます。本望です。花の命は短くても」
池のはちす に夕風が立ちそめ、水は紅花べに を溶いたようであった。ふたりは、しばらく、黙りあった。この一刻いっとき も粗末にすまいと、かみしめているかのように、心と心を寄せ合っていた。
「・・・・殿」 と、千手はふと め顔に返って 「ひそ と、お耳にいれたいことがあるのですが、ここでもよろしゅうございましょうか」
「池の中の亭、たれも、おるまいが」
それでも、気がかりらしく、二人は亭の内や外を見まわした。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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