〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/29 (水) そら き の きみ (三)

千手は、やがて輿こし を降ろされた。狩野介の家に着くと、いつもの夜番の郎党が、庭門のくさり を解いて、内へ入れた。
夜はおそい。亭の君も、はやおやす みのことであろう。彼女は、下屋しもや の内で、ゆっくり、夜化粧をすましてから、池の橋廊下を、そっと渡って行った。
すると、思いがけなく、亭の一室には、なだあわ いともし がもれていた。御書見かと、彼女は察した。そして一間を隔てた自分の部屋へそのまま入りかけると、重衡の声がして、
「千手だの。・・・・いまお戻りか」
「はい。ただ今、帰りました。殿にも、まだおやす みなさらずに」
「こよい、工藤くどう 祐経すけつね が訊ねて見え、つい今し方まで、酒 みおうていたのだ。・・・・祐経が帰った後も、なお、ひとりで かしていたが、もすこし、酒が欲しい。そなた、くりや へ参って、酒をもろうて来てくれぬか」
「ま、おめずらしいこともあるもの。狩野介さまが、お許しあるかどうかわかりませぬが、伺うて参りまする」
「なんの、祐経が旧恩をおもうて、ひそと、見舞いにおとの うてくれたのも、狩野介どのの許しによること、否というはずはない」
「しばしお待ち下しませ」
千手はいそいそと跫音あしおとはず ませて行った。彼女はうれしいのである。重衡がそんな境地にたの しんでいることも、今のような親しさを見せてくれたのも、あれ以後は、初めてといってよい。
「御酒をいただいて参りました」
「はははは、くりや の者も、意外に思うたろうな。はいれ、千手」
重衡はだいぶ酔っている。
しかし、杯盤はいばん の乱れは見えなかった。祐経と飲んだ膳部ぜんぶ は、きれいに退 げさせ、ただ小机の上に、一個の瓶子へいし と、小さな杯を乗せ、ひじ もそれへ せて、頬杖ほほづえ しているのであった。
さっそく、その杯を手に、
「千手、ついで もれ・・・・久しぶりよの」
千手は、瓶子へいし を取って、杯へ酒をみたした。静かな灯影の下に、杯の中で小波がうごいた。閉じられていた千手の心も、酒の香と一っしょにそそ ぎ出されたような思いだった。
「祐経も言うた。── お好きな酒なれば、宵ごとにちとお過ごしなされたがよかろうと、つつし みなど愚であったよ。やはり酒はよいもの」
いつにない語調である。
酒はつよい彼なので、そう心を許せば、いくらでも続くのである。杯と彼とが一つになるまでは止めそうもない。
千手は次第に心配になって来て、 「・・・・また明日の夜になされては」 と、もう厨へ酒を取りに立たなかった。
「なに、あすの夜 ──」
重衡は聞きとがめて、
「明日の夜は、生きている身やら、世にない身やら、千手には分かっているのか」
と、言った。
そして不意に、千手の手をつよく握った。
「今はわしの望みも絶えた。鎌倉殿の腹ぐろさも見抜かれたわえ、しょせん、願う平和など鎌倉殿を相手には望み得ぬ。・・・・千手、重衡の一命は、はやこの世に用を終わったものぞ、せめて花を見、酒でも飲んで死ぬほかはあるまいが」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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