「・・・・・」 千手は突然、顔じゅうを涙にしてしまった。 世にこの人の運命ほど、はっきり分かっていつものはない。 それは、梶原の邸で、いつか主客が密語していた内容からも明らかだった。 ──
つまりは、重衡が源氏へどう恭順
を誓っても、頼朝は彼を利用し得る限り利用して、無用になれば、殺す心でいることは明白であった。 千手は、梶原のいいつけ通りを守ると約束しながら、今日まで、梶原をあべこべに、欺いて来たのである。梶原の糾問きゅうもん
を受けるたび、重衡が自分の色におぼれ切っているような答えをしていた。── 梶原が 「さこそ・・・・」 と、ほそく笑みそうな作り言ごと
を、いつも答えて来たのである。 そして、この亭に帰っては。 何度、それを、重衡へ打ち明けようと思ったことか知れなかった。 だが、なぜか、いつも言い出せなかった。重衡の冷たい横顔が近づき得ないものに見えてしまう。──
けれど (今夜こそは・・・・) と、彼女は胸に誓った。すると唇くちびる
はわなないて、涙ばかりが先に顔をよごしてしまった。 しかし今。── 千手はやっとそれを打ち明けることが出来た。重衡の前に泣き伏して、 「おもえばわたくしは、殿にとって、空怖そらおそ
ろしい女です。鎌倉どののまわし者なのです。けれど心から従っている千手ではございません。いいえ、梶原どのは欺いても、どうして、殿へそのような悪心を抱けましょう・・・・」
と、胸のすべてを訴えた。なお言えなかったのは恋だけだった。 「およそは、そうと察していた。泣くことはない。さは、泣くな」 重衡には、意外らしい容子も見えない。彼女の咽むせ
ぶ間に、幾たびか、うなずいただけで、 「そなたが、どんな性さが
の女か、なんのために重衡に侍かしず
けられたか、それくらいなこと、分からないでどうしよう。・・・・そなたは、獣使けものつか
いの手で、檻おり の中の重衡へ投げ入れられた香かぐ
わしい餌え のようなもの」 「・・・・・・」 「そなた自身に、毒もなければ、悪意のあろうはずはない。むしろ、不びんな女、いとしき千手と、なんぼう憐あわ
れにわしは見ていたことか」 「では、わたくしを、お憎しみではございませぬか」 「憎いどころかよ。・・・・千手」 と、彼女濡れた顔を、両の手で持って、 「この眸め
、この愛らしい唇くち 、ともすれば、重衡の心は焼かれそうになる。恋ゆえには、敵の譎詐きつさ
も、世の悪名も、何かあらんと、いくたび、迷うたことか」 「わたくしとて。・・・・わたくしとて、おなじこと」 熱病のようなふるえを見せて、千手は空抱そらだ
きならぬ重衡の腕の中へ深々と身を沈めこんで行った。重衡の自嘲じちょう
か、千手の戦慄せんりつ から出るきれいな呻うめ
きか 「・・・・ああ」 と、何かを断ち切るような、切せつ
なげな声が、二人にして一つの影の下に圧お
しつぶされた。それとともに、ともし灯も眸ひとみ
をふさぎ、そこは、烏羽玉うばたま
の闇に落ちた。 |