〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/29 (水) そら き の きみ (四)

「・・・・・」
千手は突然、顔じゅうを涙にしてしまった。
世にこの人の運命ほど、はっきり分かっていつものはない。
それは、梶原の邸で、いつか主客が密語していた内容からも明らかだった。
── つまりは、重衡が源氏へどう恭順きょうじゅん を誓っても、頼朝は彼を利用し得る限り利用して、無用になれば、殺す心でいることは明白であった。
千手は、梶原のいいつけ通りを守ると約束しながら、今日まで、梶原をあべこべに、欺いて来たのである。梶原の糾問きゅうもん を受けるたび、重衡が自分の色におぼれ切っているような答えをしていた。── 梶原が 「さこそ・・・・」 と、ほそく笑みそうな作りごと を、いつも答えて来たのである。
そして、この亭に帰っては。
何度、それを、重衡へ打ち明けようと思ったことか知れなかった。
だが、なぜか、いつも言い出せなかった。重衡の冷たい横顔が近づき得ないものに見えてしまう。── けれど (今夜こそは・・・・) と、彼女は胸に誓った。するとくちびる はわなないて、涙ばかりが先に顔をよごしてしまった。
しかし今。── 千手はやっとそれを打ち明けることが出来た。重衡の前に泣き伏して、 「おもえばわたくしは、殿にとって、空怖そらおそ ろしい女です。鎌倉どののまわし者なのです。けれど心から従っている千手ではございません。いいえ、梶原どのは欺いても、どうして、殿へそのような悪心を抱けましょう・・・・」 と、胸のすべてを訴えた。なお言えなかったのは恋だけだった。
「およそは、そうと察していた。泣くことはない。さは、泣くな」
重衡には、意外らしい容子も見えない。彼女のむせ ぶ間に、幾たびか、うなずいただけで、
「そなたが、どんなさが の女か、なんのために重衡にかしず けられたか、それくらいなこと、分からないでどうしよう。・・・・そなたは、獣使けものつか いの手で、おり の中の重衡へ投げ入れられたかぐ わしい のようなもの」
「・・・・・・」
「そなた自身に、毒もなければ、悪意のあろうはずはない。むしろ、不びんな女、いとしき千手と、なんぼうあわ れにわしは見ていたことか」
「では、わたくしを、お憎しみではございませぬか」
「憎いどころかよ。・・・・千手」 と、彼女濡れた顔を、両の手で持って、
「この 、この愛らしいくち 、ともすれば、重衡の心は焼かれそうになる。恋ゆえには、敵の譎詐きつさ も、世の悪名も、何かあらんと、いくたび、迷うたことか」
「わたくしとて。・・・・わたくしとて、おなじこと」
熱病のようなふるえを見せて、千手は空抱そらだ きならぬ重衡の腕の中へ深々と身を沈めこんで行った。重衡の自嘲じちょう か、千手の戦慄せんりつ から出るきれいなうめ きか 「・・・・ああ」 と、何かを断ち切るような、せつ なげな声が、二人にして一つの影の下に しつぶされた。それとともに、ともし灯もひとみ をふさぎ、そこは、烏羽玉うばたま の闇に落ちた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ