〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/29 (水) そら き の きみ (二)

七日目ごとには、千手の姿が、一日だけ、亭に見えないことがある。
重衡へは 「宿下がりに」 と言って行く。
が、じつは、輿こし かれて、例のごとく、梶原の邸へ出頭する定日であった。そこでは、重衡の起居や心境の、微細な点までを、質問される。そしてまた、何かと、密々なさしずを受けては帰るのだった。
時によると。
それが終わっても、なお景時の部屋で、酒の相手を いられ、果ては、みだ らなまねをしかけられることなどもあった。
梶原は自分から 「 御前ごぜ の腕で、中将どのを、骨抜きにして見せよ」 と命じていながら、酔うとあらわに、嫉妬しっと を顔に燃やして 「── 中将どのは、美男ゆえ、 御前ごぜ の方が、あべこべに、骨抜きされているのではないか。夜伽よとぎ は、毎夜のようか。夕べはどんな風に・・・・」 などと露骨なことをたず ねたり、また 「── これが、鎌倉殿の御内命でなければ、むざと、 御前ごぜ のこの肌を、他の男などに委せてよいものか。どんなにもわしが可愛がって、このように・・・・」 と、彼女を抱きすくめ、いやがる顔を、唇で追いつめ、その髭面ひげづら を、こすりつけたりするのであった。
── 今夜もである。そこからおそく帰された途中。
彼女は輿こし の中で、腹が立ってたまらなかった。懐紙を出しては、何度も何度も、唇をふいた。が、一瞬のけもの じみた人間の口臭が、ふいてもふいても、官能からは消えもしない。何かの腐肉に中毒あた ったように、鳩尾みぞおち までが、いやなうずきをもつのだった。
どうして、こんなはずかし めや、肉体の倦厭けんえん にも、こら えなければならないのか。 「・・・・遊女あそびめ だから」 と、彼女の仲間のおんな たちはみんなあきらめすましている。が、千手には、かんたんに自分をあきらめきれないのだ。 「この命、二度とはない処女おとめ のころを」 と、口惜しく思う。
それを、日ごろの客や朋輩までが “男ぎらい” と彼女を見ていた。千住にとれば自分から結びつきたいほどな雄蕊おしべ に会わない花粉のうれ いを逆な形で示していただけのことだったろう。── 現にいま、彼女は、われからのもだえを人に寄せている。重衡の胸に泣いたときから、花粉はその人の手にこぼれたがってふるえている。
けれど、重衡は、あの夜も、ただもどかしい空抱そらだ きをしてくれただけだった。
もどかしさは、あの晩だけではない。夜伽の彼女は、夜々ひとり寝していた。昼の重衡の冷たい横顔を心にえがき 「わたくしはきらわれている」 とひとりぎめして枕を濡らしたり、 「何か、わたくしをお疑いなのであろう」 と考え悩んだり、季節はよく眠れて仕方がないこのごろなのに、彼女は、暁も知らずに眠れたというためしがない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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