〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/29 (水) そら き の きみ (一)

池の石菖せきしょう は咲きそろった。みぎわ の山吹も水を染めだした。二人暮しの亭は、昼もおおかた を垂れて、夏近い日をかさねてゆくほか、表面、何の変化もなかった。── うらやましい愛の浮巣と、人の眼には見えもしよう。
しかし、重衡しげひら の中将は、つらい牢獄ひとや であった。
世間の罵声ばせい や石つぶてにさら されてこそ、それも平家の罪業ざいごう 消滅しょうめつ のひとつと、いささか心はひとりなぐさめられもするのに、敵国のこの優遇は、思いがけないことだった。過分というよりも、度が過ぎている。もののふの情けとはこんなものではああるまい。
先ごろ雨夜の徒然つれづれ に。
ここのあるじや、工藤くどう 祐経すけつね らが、一会を催してくれたことは、敵ながら鎌倉どののいたわ りかと、甘んじて酔いもしたが、それ以後も、亭に千手をかしず かせて、まるで賓客の待遇である。いったい、鎌倉殿の底意は、何か。
よしんば、これが真実、頼朝の言うがごとき 「 入道殿にゅうどうどの からうけた恩は忘れぬ」 とう報謝に出たことにせよ、重衡には、呵責かしゃく 以外のものではなかった。── 屋島にある肉親たちを思えば、いても立ってもいられない心地になる。敵国のあわ み、敵国の美女にかしずかれ、なんで、これがたの しめようか。
ふと、自分をそう責めてやまない時など、何かよけいに、千手せんじゅ の姿が、目の前から けてしまいたいものみたいに思えて、
「千手、帰ってよいぞ。ここのおあるじに暇を告げ、そなたは、そなたの宿へ退るがよい」
と何度、心にもないことを、言ってみたか知れなかった。
千手の答えはきまっていた。そして涙ぐむこともきまっている。 「鎌倉どののみゆしがなくば、身ままに帰ることはできませぬ」 と俯目ふしめ にいうだけであった。
彼女は、重衡の言葉を、そのまま信じて 「わたくしは、おきらいなのだ」 と、思い込んでいるらしい。なるべく重衡の眼につかないようにと、次の間をへだてて控え、いつも無口に、池の水をながめていた。
どうかすると、そんな姿のまま、千手の が、いっぱいな涙をふくむ。奥の重衡も、文机ふみづくえ から池を見ている。二人は、そうしたきりで、何も言わない。言うにまさ る恨みを千手の横顔は語っている。重衡はまた重衡で 「そなたをきらっているのではない。きらうどころか、自分の弱さがこわ いのだ。そぞろ、身を焼きそうな恋を怖れて」 と、心で言っているようであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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