池の石菖
は咲きそろった。渚みぎわ の山吹も水を染めだした。二人暮しの亭は、昼もおおかた簾す
を垂れて、夏近い日をかさねてゆくほか、表面、何の変化もなかった。── うらやましい愛の浮巣と、人の眼には見えもしよう。 しかし、重衡しげひら
の中将は、つらい牢獄ひとや であった。 世間の罵声ばせい
や石つぶてに曝さら されてこそ、それも平家の罪業ざいごう
消滅しょうめつ のひとつと、いささか心はひとりなぐさめられもするのに、敵国のこの優遇は、思いがけないことだった。過分というよりも、度が過ぎている。もののふの情けとはこんなものではああるまい。 先ごろ雨夜の徒然つれづれ
に。 ここのあるじや、工藤くどう
祐経すけつね らが、一会を催してくれたことは、敵ながら鎌倉どのの宥いたわ
りかと、甘んじて酔いもしたが、それ以後も、亭に千手を侍かしず
かせて、まるで賓客の待遇である。いったい、鎌倉殿の底意は、何か。 よしんば、これが真実、頼朝の言うがごとき 「故こ
入道殿にゅうどうどの からうけた恩は忘れぬ」
とう報謝に出たことにせよ、重衡には、呵責かしゃく
以外のものではなかった。── 屋島にある肉親たちを思えば、いても立ってもいられない心地になる。敵国の粟あわ
を食は み、敵国の美女にかしずかれ、なんで、これが愉たの
しめようか。 ふと、自分をそう責めてやまない時など、何かよけいに、千手せんじゅ
の姿が、目の前から除の けてしまいたいものみたいに思えて、 「千手、帰ってよいぞ。ここのおあるじに暇を告げ、そなたは、そなたの宿へ退るがよい」 と何度、心にもないことを、言ってみたか知れなかった。 千手の答えはきまっていた。そして涙ぐむこともきまっている。
「鎌倉どののみゆしがなくば、身ままに帰ることはできませぬ」 と俯目ふしめ
にいうだけであった。 彼女は、重衡の言葉を、そのまま信じて 「わたくしは、おきらいなのだ」 と、思い込んでいるらしい。なるべく重衡の眼につかないようにと、次の間をへだてて控え、いつも無口に、池の水をながめていた。 どうかすると、そんな姿のまま、千手の眸め
が、いっぱいな涙をふくむ。奥の重衡も、文机ふみづくえ
から池を見ている。二人は、そうしたきりで、何も言わない。言うに勝まさ
る恨みを千手の横顔は語っている。重衡はまた重衡で 「そなたをきらっているのではない。きらうどころか、自分の弱さが恐こわ
いのだ。そぞろ、身を焼きそうな恋を怖れて」 と、心で言っているようであった。 |