〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/29 (水)  きみ (四)

── どこかで、幼いかわず の声がしきりにする。雨は小やみか、雨音に代って聞こえる。
さっきから、千手はじっと座っていた。ひざの先には、重衡の寝顔があった。橋の懸りをへだてた池亭ちてい の内の寝所である。おりおり、またたくのは、一穂いっすい の灯と、彼女のまぶた だけであった。
── 御介抱申し上げよと、彼女は命じられた。うれしさに、はっとした。痛いほどな動悸どうき を抱いてここへ入った。昏々こんこん と、寝顔は何も知ってくれない。彼女も、どうしてよいか、わからない。
「・・・・・」
が、こうして、このまま、身をおいているだけで、千手は愉しかった。このまま夜が明けてしまってもよい。いや、明けないでもいいと思う。
そのうちに、重衡はすこし寝顔を動かした。何かを、まさぐるように、手を伸ばしかける。── 水と、気がついて、彼女がすぐ枕もとのそれを注ぎかけると、重衡はそのかす かな器の音に眼をみひらいた。白い手首の線かららどるように彼女の姿を見上げて、黙って、水を飲みほすと、また仰臥ぎょうが のままになった。
「・・・・・」
けれど、眼は千手へそそがれていた。意外なとはしていない面持ちである。ただ、千手は恥かしさにたえないで身をちぢめるばかりだった。
「千手。・・・・和御前わごぜ は、さいぜん、しきりに泣いていたの。重衡が朗詠ろうえいだん じていたあいだ中」
「ええ。つい、みぐるしゅう泣いてしまいました」
「なぜ、泣いたのか」
「余りに、悲しゅうて」
「どうして、悲しくなったぞ」
「でも、殿のお胸、御境遇、それとあの朗詠にうたわれている人の切なげな気持が、何やら、よう似ているように思われましたので」
「はて、あれは異国の詩。── 項羽こうう が、戦いに敗れ、城の周囲には、敵兵の楚歌そか しか聞こえぬ中で、愛する虞美人ぐびじん と、別れの杯を んだという意味を歌ったものだが、どうして、それがわか る?」
「わたくしの父も、戦で死に、母は幼いわたくしを抱いて、この東国へ流れて来たものとか聞きました。その母はふみ むことの好きなお人でしたから」
「では、そなたも、母から何かと学問を受けたのか、それにしても」
重衡は思った。詩は文字の理解ではない。詩情のみが詩を共感する。重衡の境遇を思って、項羽と虞美人との詩に泣いたのは、彼女に詩がわかったのか、単なる若い女性の感傷か。
いや、半夜のかしず きにすぎないが、千手は、自分の心を知ってくれたらしい。重衡は、そう受け取りたかった。そして、そんな考えがわくのは、いけないだろうか。また一つの罪業ざいごう をつくることだろうか、と彼は迷った。
屋島には、妻が残してある。都には恋人がいる。そのうえにも・・・・と、悩まれる。
こんなときにも、すぐ法然ほうねん の言った 「人間、灰になるまでは」 のあの一語が心のどこかに顔を出している。 「煩悩ぼんのう を煩悩するなかれ」 とも言われた。それは、凡愚ぼんぐ の本能に甘えていいということだろうか。その反語であろうか。彼には分からなくなりつつあった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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