〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/29 (水)  きみ (五)

「・・・・そうか、それなら、そなたにも朗詠の詩句はわか るはず。もし、楚歌そか の中に、あの恋の花がなかったら、項羽の死はなんとつまらぬものであったろう。地獄の城、殺戮さつりく のちまたの一死にすぎない。そう思うたか」
「父も戦で失いました。母もその不幸から流浪るろう の他国で病み果てました。身のふるえるほど、戦と聞けば、おそ ろしゅうてなりません。・・・・なぜ虞美人は、戦の城へ入ったのでしょう。なぜ項羽は、戦いなどして、可愛い虞美人を死なせたのでしょう」
「・・・・というのは、この重衡を、責めているのか」
「い、いいえ、滅相めっそう もない」
あわてて彼女は打ち消した。
「── 御一門すべてと、源氏方との、御合戦には、さまざま、是非ない訳がおありに違いありませぬ。わたくしなど、女の身には、分かることではございますまい。・・・・ただ、それにしても、おいとしゅうて」
「たれが」
「あなた様が」
と、千手は、やっと言った。そして、耳に根までを紅くした。
重衡は、しとねの上に起きて、彼女のその手をひざにとった。法然の言葉も、都の空もなかった。ありありをわかる彼女の胸の鼓動と熱いものが、重衡のからだにもとお って来る。
── が、彼の欲火は、その狂炎の絶頂で、急に胸の奥から暗くなった。 「この女は、鎌倉殿が、底意そこい あって、わざと、とぎ に差し向けて来た女。── 重衡は、試されているのだ。ここはやはり、敵国の府」 と、思い直されたからである。
とはいえ、彼女の背を抱えよせた手も、握りおうた一方の手と手も、そのやりばを失ったように、重衡は、なお、そのままでじっとしていた。・・・・そして、いとも冷やかな眉をよそお って、言ったのであった。
「さきほどの朗詠は、漢音かんおん のまま歌うが、そなたが涙するほどその詩が好きなら、まいちど、和音をもって歌うてみよう・・・・。千手、そなたも一しょに、微吟してみぬか。そして、よそのうたげ に招かれたとき舞いつつ歌うてみたがいい。・・・・

ともし灯は いとどくら かり
いくくだ り きみなみだ
夜はふけぬ
四面おちこち に    の歌の声 ・・・・」

千手は、むせび泣いた。われから、重衡のひざにしがみつくように、うつ したまま、体じゅうで泣きぬいた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ