浸
れば浸り入るほど、管絃の中に、重衡は、うら悲しくなり、撥ばち
に手に、不覚な涙さえついこぼれそうになった。 六波羅の花の宵、宮廷での月の宴うたげ
、おりにふれての、一族の集つど
いやら、幼い日からの彼の生活が、ほとんど、と言ってよいほど、この音楽の中に育はぐく
まれて来たものだからである。 琵琶の音の蔭にも、琴のしらべの裡うち
にも、思い出される過去の人びとが、どれほどか知れなかった。 亡父清盛や母の二位どのも思い出される。妹の建礼門院けんれいもんいん
は、わけて琴をよくしたし、右衛え
門佐もんのすけ ノ局つぼね
とは、そもそも、さる年の秋、宮の管絃の夜が恋の機縁であった。 ・・・・さらには、屋島にある一門のたれかれの身の上など、また、平家の行く末など、かぎりもなく、音楽は幻影をえがき、幻影は彼の惨心さんしん
をかき乱して来る。 ── 重衡は、突然、撥ばち
の手を止めてしまった。 他の人びとも、はっと、面おもて
を醒さ まして、 「中将どのには、どうかなされましたか」 「いや、どうもせぬ。調べにたましいを打ち込むと、たちまち酒のさめるものよ。まず、一献いっこん
」 と、杯をとりあげて、それまでにもないほど、たてつづけに、幾杯もかさねた。 そして、ほのかに、眼のふちが染まると、 「たれの詩句であったかのう。・・・・それよ、管公かんこう
(菅原道真みちざね
) の詩に ── 綺羅キラ
ノ重キハ無情ツレナ キヲ機女ハタヒメ
ニ恨ミ、管絃ノ長曲ナルハ、終ラヌヲ伶人レイジン
ニ腹立ツ ── とかあったぞ。聴き人て
が欠伸あくび を催さぬ間に終わるのが、管絃の秘訣ひけつ
じゃそうな」 と、戯たわむ
れ、 「なんと、おあるじ、そうではあるまいか。おあるじもちと過ごされい」 と杯を与えたりした。 「いただきまする」 と受けて、狩野介は、すぐ酬むく
いた。 「こう、拙者も過ごしますゆえ、中将どのには、さらに、もう御一曲」 「だいぶ、酒もはいったわ。望みにまかせ、こんどは、笛を吹こう。邦通どの、その笛を貸せい」 と、ただ一人で、横笛を吹いた。 重衡の多芸と、風流ぶりに、たれもが感じ入った。そしてその美しい音にも酔わされた。 終わると、邦通が、たずねた。 「ただ今、遊ばした曲は、なんという曲でございましょう。てまえも、笛は好きで、真似事まねごと
はいたしますなれど」 「知らぬのか」 「わきまえませぬ」 「五常楽ごじょうらく
の曲の一節じゃ。なんと重衡は、後生楽ごしょうらく
な男ではあるまいか。はははは」 「や、隅には置けぬ洒落しゃれ
を仰っしゃる。てまえの表芸とする笛は顔色もなくされ、ほかの一能いちのう
とする洒落のおかぶまで、取っておしまいになったわ。これや、いけぬ」 座中は笑いこける人びとの声に沸いた。 興に乗じて、祐経は、鼓を把と
って、今様いまよう を歌った。──
重衡も、したたかに酔いしいれた容子ようす
で、ふたたび、琵琶をかかえ、 燭ショク
ハ暗クラ シ、数行スウカウ
虞氏グシ ノ涙 夜ハ深シ、四面シメン
楚歌ソカ ノ声 と、朗詠ろうえい
の一節を、浩然こうぜん と吟じながら、撥ばち
するどく、かき鳴らし終わって、それと同時に、がばと、弦上げんじょう
に面を伏せてしまった。 血でも吐いたのではないかと、人びとは驚いて寄り添った。けれど、烏帽子の緒も外はず
して、そのまま眠り入っている息づかいなので、初めてそっと顔を見合わせた。── 朗詠の詩句の意味は解らないまでも、何か、重衡の血管を突き破って出たようなひびきが聴く者の胸に迫らずにいなかった。わけて、千手は、うつ向いたきり、とどめもなく泣いていた。 「・・・・しいて、お起こしせぬがよい」 「でも、お風邪を召されては」 「すこし時を経てから、そっと、御寝所へお運びしてあげてはどうか」 ひそと、人びとは言って、 「では、拙者どもは、おいとまを」 と、酔い伏した人はそのまま、辞去のあいさつをし、工藤祐経と邦通とは、すぐ帰った。 やがてその後から、妓おんな
たちも、家人の松明たいまつ に送られて門を出た。妓家ぎけ
で用いる錆朱色さびしゅいろ の大きな雨傘あまがさ
が、武家小路から深夜の辻を曲がって行った。 雨傘の影は、四つしか見えない。たれか一人は、残されたものとみえる。 |