〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/26 (日) 酒 景 雨 景 (二)

終日ひねもす の雨だったので、暮れるも早い。
そのせいか。客も。約束の時間より早めの見えた。
いや、客というよりは、頼朝の命を受けた尾門使といった方がよいかも知れぬ。
ひとりは、近侍の工藤くどう 左衛門尉さえもんのじょう 祐経すけつね
もう一名は、蛭ヶ島時代、よく頼朝の配所に食客となっていた画工の播磨はりま邦通くにみち ── 今では祐筆の藤ノ邦通だった。
この邦通は、芸人である。むかしから頼朝が 「おかしげなる、剽戯者ひょうげもの 」 と銘を打っていた男だけに、打ってつけな役と、祐経にそえて、さし向けて来たものだろう。
「中将どのには、まだお身支度が」
彼はまた、遠慮もない。
遠慮がないという風は、こういう類型の人物には、共通なものである。邦通は、祐経とともに、席を分けて、上の方にすわった。まん中の空席は、いうまでもなく、重衡のために待たれてていた。
「・・・・これは、お早々と」
そこへ、あるじの狩野介が、あいさつに出た。子飼いの家人七、八名は、末座ににて、しきりと、邦通の冗談を、真顔でうけていたところだった。
「やがて、重衡の中将どのにも、まもなく、見えられましょう。・・・・和殿方わどのがた のお越しの方が、約束の時刻よりは、ちとお早目。はや、お客かと、釜屋かまや の者さえ、あわてておる」
「はてな」 と、邦通は、とぼけ顔して、工藤祐経の横顔を見 ── 「そんなつもりもなかったが、やはりちと早すぎたかな」
「早いといくら申しても、御辺は、お聞き入れの様子もなかった。遊ぶことには、いつも、おくれを取らぬお人ではあるぞ。はははは」
祐経は三十四、五。くだけても、どこか折り目をくずさないものを、きちんと持っている。にが みばしった容貌ようぼう も、たけだけ 々しからず、柔弱でもなく、次のろう に控えている四人の歌姫うたひめ たちの眸は、とかく、その顔に かれがちに見えた。
「おあるじ、鎌倉殿からも、特にお名ざしの、千手が見えぬようですが」
「いた、参っております」
「来ておりますか」
「中将どのには、今し方、湯殿を出られたばかりゆえ、おぐし を上げたり、お召しかえなど、何かのお世話をしているのでおざろう。まもなく、これへ見えまする」
「はや、そのような、お手まわしだったのか。とも知らず、不粋なおたずねを」
祐経はそう言って、狩野介と意味ありげな眼を見合わせた。邦通があまた、その尾について、廊ノ間のおんな たちへむかい 「今夜は、おまえたちが見せ付けられる番だぞ。あとで千手にたっぷりおご らしてやるがよい」 などと冗談を座に いていると、庭に面した座敷の に、背のすぐれた人影がさした。
重衡 ── と知って、邦通も妓たちも、口をつぐんだ。急に、夜雨の音が、耳に入って来る。人びとの座構ざがま えが改まったせいか、広座敷の灯も清潔すぎるほどな えを新たにした。
こころもち、会釈えしゃく を見せながら、重衡は空いている席へ黙って坐った。彼について来た千手は、朋輩ほうばい たちのいる廊ノ間に入った。烏帽子えぼしうるし より濃い重衡のびん の毛には、くし の歯がよく通っている。
「かねて、おあるじから、お伝えもあったでしょうが」
と、祐経は、その人の方へ向かって、いんぎんに、
「拙者どもの推参すいさん は、なんの意味もありませぬ。この日ごろの雨つづき、さだめし、牢舎のお暮らしも、いとどうれ たくおわそうにと、鎌倉殿のお察しなのです。なんぞして、お慰め申し上げよとの仰せでもあり、かく騒々ざわざわ と、お見舞いに出でたにすぎません。ただおくつろぎ給わらば、何よりなので」
「過分な、おんいたわ り、虜囚りょしゅう の重衡には、お礼の言葉もない。が、せっかくの芳志に甘え、今宵は、牢舎を忘れるつもりです。・・・・なんと工藤、虜囚りょしゅう とは、よい身分のものではないか」
と、重衡はもう言われぬ先に、くつろいでいるといったような容子で、屈託くったく もない笑顔を見せた。
東国の妓たちは、鉄漿かね を染めた彼の歯並びが、もういうたびに、唇の端から黒光りして見えるのが、異様でもあり、何か、近づき難き高貴にも見えた。湯上りの後を薄く公達きんだち 化粧して端座した都人みやこびと のすがすがしい姿一つに、灯もかがやき、彼女らもみな息をつめて見まもりあった。
けれど、祐経だけは、ふと、さしうつ向いてしまった。
いま、重衡から 「── なんと工藤」 と、親しげに言われたからである。
祐経は、二十歳がらみの時から、久しく都に居、平家一門の小松殿に仕えていた。よく重衡の送り迎えにも立ち、親しく言葉をかけられたこともある。
「いわば彼にとっては、旧主につながるお人であるのだ。多少、面映おもは ゆいし、気の毒な感にたえない。しかし、祐経は、後ろめたさに、うつ向いたわけではない。べつに自分には自分の事情もあり、同情ももっている。── ただふと、耳に覚えのある声で、昔のままの親しさで呼ばれたために、今昔こんじゃく の想いに、答える言葉を見失ったまでであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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