>湯浴
みする所すらも、そのころの世の人たちには心からのびのびと>憩いこ
う場所にはならなかった。夕迫る暗がりや雨の日など、わけて陰気であった。小さい>高窓たかまど
と>遣戸やりど のほか光の入る口もない。特に武家社会では、風呂場ふろば
といえば用心が先に立った。裸だし、身に寸鉄もおびていないので、ここでの謀殺沙汰はよくあったものである。重衡が、知っている例だけでも少なくない。 その重衡は、観念的には
「遅かれ早かれ、死は一定いちじょう
、いつお迎えが来ようとも」 と、覚悟は、し澄す
ましているつもりではいたのである。しかし彼の肉体は心と別に、時によりぎくと無意識な硬直をすぐ起こした。 ── 今も、湯殿における警戒の習性を肉体だけは忘れていなかったものだろう、湯気に上気していた上体が、わけもなく、その血色をさっと退いて、 「たれだ。・・・・家の者か」 と、我にもあらぬ声でとがめた。 ちらと見えたのは、眼にもまばゆい女のような気もしたが、姿を隠して、それきりカタと物音もしないので、 「いつまでも、答えをせぬは?」 と、怪しみながら、そこの遣戸やりど
の口へ、彼の方から寄って行った。 遣戸の蔭に立ち止まっていた女は、あわてて手燭てしょく
を下へ置き、自分も板の間へすわってしまった。けれど依然、答えもせず、ただ、もじもじしていた。というよりも、ふいに、重衡の裸身を湯けむりのうちに見たので、なおさら、ものも言えなくなってしまったに違いない。 「おう、当家の湯殿仕えの女房か」 「い、いいえ・・・・」 初めて彼女は面おもて
を上げた。 小さい灯の輪が、その真っ白な顔だけを映は
えさせて見せた。 もう二十歳はたち
には近いらしい。処女ではないのかも知れぬ。けれど、蠱惑こわく
な眼もとも唇くちびる のあたりの愛嬌あいきょう
も、こぼれるばかりな泉でこそあれ、みだらを思わせる汚れではない。どこかに、聡明そうめい
らしい翳かげ さえあった。そして憖なま
じこんな美貌びぼう に宿った叡智えいち
が、かえってこの美貌の人の睫毛まつげ
をいつも濡らす不幸に導いているのではないかと思われるような、愁うれ
たげな翳かげ もあった。 「この家の者ではございませぬ。鎌倉どのの仰せつけで、こよいの御酒宴に、興きょう
をお添えするため、外から召し呼ばれて来た女子のひとりでございまする」 「では、鎌倉の白拍子しらびょうし
か」 「千手せんじゅ と申しまする」 「千手とな」 「はい、朋輩ほうばい
たちと一しょに、うちそろうて、お屋敷へ伺うたのでございます。すると、おあるじの狩野介様が、客人まろうど
には、ちょうど、お湯浴みしておられる・・・・湯殿へ参って、お背を流してさしあげよ、とのことで」 「そうか、それは、かたじけない」 「ふつつか者ですが、お垢あか
を引かせてくださいませ」 「おう、ざっと、頼もうか」 重衡は、小桶こおけ
に腰かけて、背を向けた。 手燭を、角すみ
の棚たな において、かいがいしげに、千手は重衡のうしろへまわった。纐纈こうけん
(しぼり染) の帷子かたびら
の袂を、片だすじにからげて、流しの床にはいった。湯巻ゆまき
(湯殿仕えの女房が上衣につける腰衣) には、桜小紋を白く抜いた山吹染やまぶきぞめ
の布を用いていた。 垢あか
をこすられては、幾たびとなく、湯の白珠を背へかけられる快こころよ
さに、うっとりとしながら、重衡は、自分の足もとへ眼を落としていた。そしてまた、自分のよりは、小さく踵かかと
のまろい足も見ていた。その拇指おやゆび
の爪つめ は、湯に洗われて、淡紅とき
色いろ の貝みたいな愛らしい形をしている。重衡はふと、口に触れてみたいような小さな衝動にかられた。 「お髪ぐし
は、どうなさいますか」 「髪か。・・・・髪も久しく洗っていないが」 自分の肩に乗っている白い手を見上げながら、重衡は、 「いや、髪ぐらいは、自分で洗おう。もうよい、ありがとう」 と、笑顔で言った。 彼女も、重衡の肩ごしに微笑を見せた。歯がきれいである。ゆたかな下げ髪の端が、重衡の耳へ冷たくさわった。 「では、ここへ置きますから」 彼女は、半挿盥はんぞうだらい
の中へ、自分の櫛くし を残して、足をふいた。そして後ろを閉めた湯殿の口へ、もいちど、小声で、 「後ほど、また御見ぎょけん
に」 と、言って去った。 |