〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/20 (月) 中 将 ・ 街 道 下 り (二)

重衡は、素直に、うなずいて、
「ありがたい御意。世間の慈悲の肌を、こんどほど、身に沁みて知ったことはありませぬ。平家は一門同族の内では、二十余年よく楽しみ暮しましたが、その世間への慈悲が足りませんでした。それだけを今、すまないことと、深く悔いておりまする」
と、たれへともなく、自然な頭を下げて、
「仰せまでもなく、身の養生にも、つとめまする。が、けさほども、土肥どのの心入れにて、特に、干鰈ほしがれい に、白粥しらかゆ を賜り、若菜わかな の汁など、何杯も代えたいほど美味しくいただいたほどです。ほかに不足とてもなし、重衡は昨今、もったいないほど、みち足りておりまする。よそながら、何とぞ、御安心を」
と、ほのぼのと笑った。
重衡の笑顔が、浮くように見え出したのは、小坪 (中庭)枝垂しだざくら に朝の して来たせいであろう。時刻はそれほど、二人の間に、時知らぬ間に っていたのである。
ところへ、中門を入って来た土肥実平と一群の武者が、庭上に立ちそろって、こなたの、きざはし へ、呼ばわった。
「梶原どのの御人数も参られたり。はや、御時刻。 ── 中将どのには、 う、ここをお立ち出であれ」
「おう」
と、小声で答えながら、重衡はすぐ座を立った。
駆け上がってきた雑兵が、東と南の縁の をみな巻き揚げる。まだ消え残っていた幽室の灯をそのまま、外の花明りがさしこんで、重衡の大口おおぐちすそ にも白い花片がしきりに舞った。
「お歩きなさい」
雑兵たちにうながされて、重衡は、一歩一歩、きざはし を降り始めた。そこで、いちど静かに、満庭の将士を、ながめて、いんぎんに、
「御苦労です」
と、一礼した。
梶原のひとみ、実平のひとみ、義経のひとみ、彼を見る心情のさまざまな眼の列を横に、重衡の姿は、中門へ通って行った。そしてすぐ、馬の背に移った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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