〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/19 (日) 中 将 ・ 街 道 下 り (一)

雑兵の口からでも、漏れていたのだろう。町ではもう今朝のことを知っていた。堀川ノ御堂筋には、見物がいっぱいだった。
それも、暗いうちからの人垣ひとがき である。貴人の遠流おんる などには、当人の恥や思いを刑吏も察して、未明に都を立つ場合がある。── 重衡の中将の護送も、おそらくその例かと、早くから待ちかまえていた群集であったらしい。
けれど、そこの桜が白々と屋根越しに明け初め、警護の兵の松明たいまつ がみな消されても、中門のくさり はなかなか解かれなかった。
「遅いのう」
こういった風な顔つきは、外の人垣ばかりではない。その朝、梶原かじわら と交代するはずの土肥実平とその部下をも、当然、いらいらさせていた。
「── もう くに見えてもよい時刻。どうしたのか、梶原どのは」
こら えかねたように、実平は、往来に出て、佇んでいたが、是非もなげに、また築土ついじ の内の床几しょうぎ へもどった。
だが、彼は胸をさすって、こう思い直した。
梶原の遅刻は、自分らには業腹ごうはら なことだが、しかし、奥の幽所で別離を惜しまれている重衡の中将と、九郎の殿にとっては、ゆるりとお話も出来、かえって倖でであったかもしれない ── と。
そう思えば、腹も立たなかった。奥をうかがえば、中将と義経との、笑い声すら、時おり、漏れて来る。
義経は、自己の職責上と、重衡へ寄せていたひそかな同情からも、今日の別れを惜しんで、まだ暗いうちに、ここを訪い、 「── またぞろ、先ごろのような狼藉ろうぜき がないように」 と、往来のあなたこなたに、部下を配しておき、自身は、
「寸時のお名残を」
と、奥へ入って、重衡と会っていたのである。
すでに重衡は、暁の灯で、歯に鉄漿かね さえ染め直し、かねて義経から贈られた肌着、直垂ひたたれ を着替えて、おり 烏帽子えぼし の下に透く髪の香もつや やかに、よそお いをすましていた。
そして、義経の訪れに会うと、よろこびのうちにも、深く身を折りかが めて、
「きのうは、法然御房にお目にかかって宿望をとげ、昨夜はひさびさでこころよく熟睡うまい もいたしました。今日までの御庇護ごひご と、おん情けは、なかなか、お礼も申しきれません。身、鎌倉へ送られて、すぐ打ち首になりましょうとも、など、この御恩を忘れましょうか」
と、心から言った。
義経は、その姿に、かえって、自分の幼時の姿をうつ されていた。自分ひとりではない、兄の頼朝も、十三歳の昔、池ノ禅尼の幽室で、こういう風に、囚人めしゆうど の座におかれ、清盛の嫡男小松重盛から、不愍ふびん をかけられて、人の情けに、涙を垂れたことがあるのである。昨日のわが運命が、今日は人の身の上に、そしてまたいつか、自分に巡り返って来る運命でないと、たれが保証し得るだろうか。
おそらく、兄の鎌倉殿も、昔を忘れてはいないだろう。敵とはいえ、無力な虜囚りょしゅう の人に、そうむご いことはなされまいと ── 口にまで出かけたが、義経はしかし、言葉には出さなかった。
ただ、さるげなく、
「敵国の府へ、百里をひかれてゆく身と思えば、さだめしお心細くおわそうが、渡る世間に鬼はないとやら申すこと、この九郎なども、幼時の身に覚えがあります。むごい、冷たい世間。けれど限りなく、情と情で暖め合っている世間でもある。かならず先々では、そうした知己にも会われましょう。何よりは、御自身、お体をおいといあって」
と、慰めた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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