「御幽居はここか。・・・・吉水の法然じゃが」 彼の声に、内の重衡
は、 「つつしみの身、お出迎え申すものもおりませぬ、そのままおはいりを」 と詫わ
びながら、自分で破や れ簾す
を掲かか げ上げて、法然を室へ通した。 あいさつは、それからだった。初対面と言ってよい。以前、六波羅ろくはら
の邸で法然を請しょう じたことはあるが、聴聞ちょうもん
の中にいて、よそながらその教義を聞いただけのことである。それだけの縁でしかない。 それなのに、法然は、上座に坐ったが、少しも彼に “他人” を感じさせなかった。
「お会いできて、よかった」 と、ほほ笑んだ。重衡の方こそ、そう言いたかったよろこびを、先に言われたかたちであった。 重衡はただ、ひたと、拝はい
の礼をとって、 「御宗旨の末縁でもなく、しかも垢衣くえ
の身をおそれず、かかる獄室へお越しを願うなど、沙汰の限りとも思われましたが」 「いやいや、よくぞ法然を思い出してくだされた。御栄花ごえいが
ありし昔、西八条や六波羅の美車をもってお迎え賜るよりは、うれしいお使いであった」 「栄花といわれ、むかしと聞くだに、今はただ、恥かしい思いがいたしまする。われながら、浅ましいかかる姿に
── 」 「なんの御卑下ごひげ
、そのような卑下こそ、つまらないお煩わずら
いじゃ。衣冠玉帯いかんぎょうたい
を飾らせ給うていたころのあなたも、今日のあなたも、法然の眼には、どこも違うてはおらぬ。心まで落魄おちぶ
れ給わぬものと思うて」 「されば、それも見得かも知れませぬが、心までは落魄おちぶ
れ果てたくないのです。身、鎌倉に送らるるからには、敵国の府において、東国人とうごくびと
の見せ物にされ、末期まつご の座も待つことでしょう。きれいに今生こんじょう
をすませたいのです。もし、上人のおひと言こと
なりと賜ったら、あるいは、重衡ごとき罪業ざいごう
の深い者も、世に物笑いを残すなく、身を終わり得ようかと、いわば虫のよい、窮した時の神だのみに、かくはお目にかからせていただいたわけでございまする」 「虫のよい神だのみと申されたが、困った時の発心ほっしん
も、困らぬ時の発心も、発心に変りはない。そもそも、須磨の浜戦はまいくさ
で、あなたが敵の縄目なわめ にかかられたということが、もう仏縁ではなかったか」 「そうかも知れぬ。いや、そうです。・・・・なぜかその時、すぐ死のう気持よりも、生捕られんと、ふと願う気になっていました。この体が、何か、縛しば
って欲しいと望むような疼うず
きをもって」 「ありがた御縁と申すもの。そのときから、あなたは、仏に手をひかれておいでなのじゃ。そのまま、ありのまま、この語の日々もおまかせあった、鎌倉へお下くだ
りあるがよかろう」 「が、煩悩ぼんのう
は日夜、やみません。覚悟はしたと、身に言い聞かせながらも」 「はははは。それは法然とて、おなじことでおざるよ。人間、灰になるまではの。・・・・何も、しょせん死ぬまでは離れぬ煩悩と、そう取っ組んで闘うことはいらぬ」
「上人といわるる御房においてすら、なお、そうなのですか」 偽いつわ
りは申さぬ、自分も、十悪の持主、愚痴煩悩のかたまりと知ったがゆえに、古い法燈の虚飾虚名、智恵学問など、すべての殻をきらって、凡愚衆生のなかへ仲間入りして来た法然でおざる。かの仏陀ぶつだ
が誓言せいごん を地上に見んなんどとする本願も、つまりは、法然の煩悩から生まれた一つの欲。法然は欲望のかたまりと申せる」 「が、それは、さんらんたる慈悲の大欲。お恥ずかしいことですが、重衡は重衡一身の惑まど
いにとどまっております。ある夜は、屋島へ残せし妻を夢み、ある夜は、右衛門佐 え もんのすけ
ノ局つぼね を夢に抱いて、懊悩おうのう
の汗を肌着にうるおします。うつし身の昼の覚悟とはまったく別に、一つ心を二つにも三つにも自分へ見せて、どれがほんとの自分やら分かりませぬ」 「自分と言える自分などが、どこにあろう。ないはずのものを、あなたは、つかもうとしておいでられる」 「おことばですが、ないとは、思えませぬ。重衡は、ある」 「では、お訊ねするが、先さい
つごろ、洛中を引き回しの目に遭われた日、法然も人群れの中より見ておったが、大仏殿でん
焼亡の総大将重衡よと、衆人の唾つば
、罵言ばげん 、小石の雨が車に集まり、お身にすら当ったようだが、あのとき、小八葉こはちよう
の車の内に、じっと坐っておられた者は、あなた一個か、あなた以外の者だったか」 「・・・・・・・」 「よも、自分などという小さいものではおわすまい。平家一門の罪業ざいごう
を負い、世の宿怨しゅくえん を身ひとつに受けて、罪障ざいしょう
消解しょうげ の償つぐな
いを、今に果たさんこそ本望ぞとお心に思い澄ましておられたように、法然は、よそながらお察ししていた。すでに、その御誓願ごせいがん
は、仏とひとつのもの。一個の重衡どのではない。── さればあの日、小八葉こはちよう
の内には、あらありがたき生き身の御仏みほとけ
のおわすよと、思わず路傍から伏し拝んでいたことでおざったに」 「では、仏敵とよばるるこの重衡へ、さまでにも、おん憐れみを」 「仏敵とは、、なんのことか。申さば、法然なども、今日の仏敵の一人であろう。現に、叡山や、南都の輩ともがら
は、法然をさしても、さように申しおるらしい。とはいえ、まことの仏は、ののしる人のそばにもおらぬ。かえってたまたま、あの日の小八葉のうちに、仏陀のお姿をこの眼で見た。──
されば、けさのお使いをうけ、法然がさっそくみ、まかり出たのも、御縁は浅からぬことなのでおざる。お互いともに、仏敵にて候うなれば・・・・」 この時、法然は、声を出して笑った。重衡も誘われたように微笑を浮かべた。二人はそれなりしばらく黙った。 この間、法然の唇から低い念仏の声がもれ、重衡の胸には、しんしんと、泉がわいてくるような気がしていた。と言っても、悟さと
りを得たというようなものではない。ただ非常に心が楽になったと重衡は気づくのだった。法然も自分も、おなじ凡夫と聞いたからでもあろう。また、自分もある日は、仏そのものになり、ある夜は、煩悩の痴人となるが、それが人間なので、人間である限りは離れぬ煩悩と闘うことも無用と言われたせいもあろう。そして彼も、法然の唇に引き込まれるように、いつかしら一しょに念仏を低唱していた。そうしたきりで、ただなんとなく愉たの
しかった。 |