道行く人も、吉水の上人とは、たれも気づかないふうである。友時にしても、なんだか、嘘みたいな気がするのだった。しかし、人の話にも、法然に帰依
の深い上西門院のお迎えでも、月輪つきのわ
兼実かねざね の邸に月に一度ずつの法筵ほうえん
に行くのでも、牛車や輿こし は断って、たいがいこんな風だと聞いている。別に今日だけのことではないらしい。 そういえば、近年、後白河法皇が、東大寺大仏殿だいぶつでん
の再建さしこん を思い立たれたが、公卿富門の力だけでは及ばない大業のことであり、その合力ごうりき
には、どうしても、地上大衆の協力がいるので、庶民の中に今、大きな声望を持つ法然に対して、造東大寺司ぞうとうだいじし
を使いとし、 「── 大仏殿勧進クワンジン
ノ聖ヒジリ ノ役ヲ仰セ付ケ給フ」
と勅宣を降くだ されたことがある。 そのときも、彼は、
「── 法然の本願は、衆生とともに、ただ念仏申して、この世をいかに息づかんか、よき往生をとげんとかと思うのほか、日夜、林藪りんそう
のうちに願いもありません。千万人の汗と、巨財を徴して、聖武の大金色像をながめんとの思し召しなれば、それの勧進には、それにふさわしい聖ひじり
がほかにないでもありませぬ」 と、醍醐だいご
の重源ちょうげん を推薦すいせん
し、自身はあっさり辞退したということも世間に伝えられている。 「── その勅宣をすらお断りした上人が、大仏殿焼亡の仏敵、そのおりの大将とののしられているお人の幽所へ、思えばよくも、おこころよく、こう、お越しくだされたものではある」 友時は、そんなことまで考え出されて、この上人と重衡との心の間に、どんな心のつながりがあるのかと疑った。 河原まで来ると、ふと、法然は立ち止まった。わら草履の緒お
が切れたのである。 友時は、すぐ気づいて、 「ちと、お待ちくださいませ」 と、かなたの板小屋の棚たな
(店) を見て走って行った。 そして、そこらに吊るしてある藁金剛わらこんごう
(わらぐつ) の一足いっそく
を求めようとすると、店の女は、 「あちらにいらっしゃるのは、吉水の上人さまでございましょう」 と言って、どうしても、わらぐつの代価は取らないのである。で、友時がその気持をありがたくもらって、頭を下げると、女は、上人のほうへ向いて、胸の前でそっと掌て
を合わせていた。 また法然も、友時のもたらした新しいわらぐつを見て、もったいなげに、押しいただいて、足にはいた。五条大橋はもう近かったのである。上人の足の新しいわらぐつが人混みの中でも光って見えた。 堀川ノ御堂に着いたのは、もう午ひる
ちかくであった。すこし風めいて来た春の真昼である。警固の土肥の部下たちは、あすはもう梶原景時かじわらかげとき
の兵と交代して、播磨路はりまじ
へすぐ立つので、荷梱みごり や鞍くら
の手入れなど、軍旅のしたくに忙しげだった。それらの兵の影や、廃園の朽ちた門屋根をかすめて、ひんぷんと、白いものが降っていた。── 幽所の中庭の糸桜ももう散るかと思い、友時は、すぐ、待ち久しげに待っているであろうお人の姿を胸に泛うか
べていた。 「友時、ただ今、戻りまいた。・・・・あれへ、吉水の上人をお伴ともな
い申し上げて」 仮屋かりや
の土肥実平は、彼の弾はず んだ声を外に聞いて、手にめくっていた書状やら覚え書きの反古ほご
を、軍櫃いくさびつ の中へ投げ入れるようにほうって、内門の外まで出て来た。そして。 「どこに?」 というような眼で見まわした。
すぐ前に佇んでいた人を、弟子かと思い違いしていたらしい。法然と聞いて、恐縮し、武辺らしく自分の粗忽そこつ
を自分で笑いぬいた。そして、後ろにいた兵に、中門の鎖くさり
を解かせ、 「ふとしたら、今日は、院の御使いなどもあるやに考えられる。なるべく、御見ぎょけん
はみじかい間におすましを」 と、念を押して、内へ入れた。 法然はうなずいて、荒れ庭を通った。下屋そもや
の口でわらぐつを脱ぎ、みちびき迎えた友時は、例の朽ちた渡りのこなたにとどまって畏かしこ
まった。あとは無言のまま、すぐ坪向うの破やこ
れ簾す をさして 「・・・・そこに」
と、眼で告げるものらしい。 蔀しとみ
やそこの古簾にも、散り桜の片々が、粉雪のようにとまっていた。── と、内からは、外の二人の影が、すぐ眼に映じていたにちがいない。かすかに、座を立つ人の気配が動いていた。 |