〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
せん じゅまき

2014/01/13 (月) ほう ねん しょう にん (四)

道行く人も、吉水の上人とは、たれも気づかないふうである。友時にしても、なんだか、嘘みたいな気がするのだった。しかし、人の話にも、法然に帰依きえ の深い上西門院のお迎えでも、月輪つきのわ 兼実かねざね の邸に月に一度ずつの法筵ほうえん に行くのでも、牛車や輿こし は断って、たいがいこんな風だと聞いている。別に今日だけのことではないらしい。
そういえば、近年、後白河法皇が、東大寺大仏殿だいぶつでん再建さしこん を思い立たれたが、公卿富門の力だけでは及ばない大業のことであり、その合力ごうりき には、どうしても、地上大衆の協力がいるので、庶民の中に今、大きな声望を持つ法然に対して、造東大寺司ぞうとうだいじし を使いとし、 「── 大仏殿勧進クワンジンヒジリ ノ役ヲ仰セ付ケ給フ」 と勅宣をくだ されたことがある。
そのときも、彼は、 「── 法然の本願は、衆生とともに、ただ念仏申して、この世をいかに息づかんか、よき往生をとげんとかと思うのほか、日夜、林藪りんそう のうちに願いもありません。千万人の汗と、巨財を徴して、聖武の大金色像をながめんとの思し召しなれば、それの勧進には、それにふさわしいひじり がほかにないでもありませぬ」 と、醍醐だいご重源ちょうげん推薦すいせん し、自身はあっさり辞退したということも世間に伝えられている。
「── その勅宣をすらお断りした上人が、大仏殿焼亡の仏敵、そのおりの大将とののしられているお人の幽所へ、思えばよくも、おこころよく、こう、お越しくだされたものではある」
友時は、そんなことまで考え出されて、この上人と重衡との心の間に、どんな心のつながりがあるのかと疑った。
河原まで来ると、ふと、法然は立ち止まった。わら草履の が切れたのである。
友時は、すぐ気づいて、
「ちと、お待ちくださいませ」
と、かなたの板小屋のたな (店) を見て走って行った。
そして、そこらに吊るしてある藁金剛わらこんごう (わらぐつ)一足いっそく を求めようとすると、店の女は、
「あちらにいらっしゃるのは、吉水の上人さまでございましょう」
と言って、どうしても、わらぐつの代価は取らないのである。で、友時がその気持をありがたくもらって、頭を下げると、女は、上人のほうへ向いて、胸の前でそっと を合わせていた。
また法然も、友時のもたらした新しいわらぐつを見て、もったいなげに、押しいただいて、足にはいた。五条大橋はもう近かったのである。上人の足の新しいわらぐつが人混みの中でも光って見えた。
堀川ノ御堂に着いたのは、もうひる ちかくであった。すこし風めいて来た春の真昼である。警固の土肥の部下たちは、あすはもう梶原景時かじわらかげとき の兵と交代して、播磨路はりまじ へすぐ立つので、荷梱みごりくら の手入れなど、軍旅のしたくに忙しげだった。それらの兵の影や、廃園の朽ちた門屋根をかすめて、ひんぷんと、白いものが降っていた。── 幽所の中庭の糸桜ももう散るかと思い、友時は、すぐ、待ち久しげに待っているであろうお人の姿を胸にうか べていた。
「友時、ただ今、戻りまいた。・・・・あれへ、吉水の上人をおともな い申し上げて」
仮屋かりや の土肥実平は、彼のはず んだ声を外に聞いて、手にめくっていた書状やら覚え書きの反古ほご を、軍櫃いくさびつ の中へ投げ入れるようにほうって、内門の外まで出て来た。そして。
「どこに?」
というような眼で見まわした。

すぐ前に佇んでいた人を、弟子かと思い違いしていたらしい。法然と聞いて、恐縮し、武辺らしく自分の粗忽そこつ を自分で笑いぬいた。そして、後ろにいた兵に、中門のくさり を解かせ、
「ふとしたら、今日は、院の御使いなどもあるやに考えられる。なるべく、御見ぎょけん はみじかい間におすましを」
と、念を押して、内へ入れた。
法然はうなずいて、荒れ庭を通った。下屋そもや の口でわらぐつを脱ぎ、みちびき迎えた友時は、例の朽ちた渡りのこなたにとどまってかしこ まった。あとは無言のまま、すぐ坪向うのやこ をさして 「・・・・そこに」 と、眼で告げるものらしい。
しとみ やそこの古簾にも、散り桜の片々が、粉雪のようにとまっていた。── と、内からは、外の二人の影が、すぐ眼に映じていたにちがいない。かすかに、座を立つ人の気配が動いていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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