〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻
2014/01/07 (火)  しま へん しょ (二)

院宣いんぜん御使船みつかいぶね が、屋島の磯へ着いたのは、二月十日がらみであった。
一ノ谷、鵯越えなどに、数千の死者手負いを残したまま、淡路、家島、そのほかへ、散々な姿で逃げ散った敗軍の平家にとっては、まだ、その悲涙もかわ かないうちだったのである。
やっと、残余の兵力を、もとの屋島に結集して、余りにも大きな敗傷に、茫然ぼうぜん となりながらも、うしな った人びとの後弔あととむら いやら、この後の方針などに、悲嘆に暮れるひまさえないような有様の所へ、
「院の御使いが降ったぞ。── 御使いの役人は、公卿にもあらぬ、御坪おつぼ召次めしつぎ (庭づとめの雑仕) 花方はなかた と申す者の由」
と、木戸から木戸へ、伝えられて来たので、島じゅうの将士が、
「なに、今ごろになって、御使いだと」
「またしても、何か、たばか りの院宣にちがいあるまい」
「もうだま されはせぬぞ。追い返せ、追い返せ」
と、わめ き立ったのも無理はない。
彼らの面色めんしょく には、十日前の戦場の殺気が、まだ消えてもいなかった。それに、そのときの偽計と見られる院のくだ し沙汰が、敗北の最大の原因と、後では、地だん踏んだことなので、
「たとえ平家が、ただの一人になるまでも、三種の神器は、返し奉るな。院宣などは、破り捨てよ」
という反感に燃えたのも当然だった。
都でも、あらかじめ、こんな結果は、予想されていたに違いない。そのため、御使いに立つ公卿がなく、身分の軽い花方などが、差し向けられて来た物であろう。── しかし、院宣使いんぜんし といえば、格式は重い。もちろん、内府宗盛以下、それの迎えに、礼を欠くことはなかった。
けれど、将士一般の激昂げっこう と、おなじうら みは、屋島の首脳部にもあった。いや、宗盛、知盛、教盛、経盛などには、もっと深刻で複雑なものがある。
「このお答えを、いかに、申すがよいか」
御使いの花方を、別の仮屋へ送って、一門は、評議をこらした。
「虫のよい御沙汰」
と、たれもが、一言のもとに、不屈な意気地を、くちびる にかんだ。
「したが、神器を返すならば、都に生捕りにある中将どのの身を帰さんとの御諚でもある。また、重衡からも、このさい、神器を返し奉って、和を結べと、熱心に説いて来ておるが」
いつもの例だが、宗盛は、どっちつかずの態である。
だが、総領としてのだん を、この人に求めるのが無理なことは、一門の者ならたれでも知っている。
新中納言の知盛が、すぐ言った。
「院のおはら が、どこにあるかなど、今さら論考の余地はない。さきに大敗は、われらが、院のくだ し沙汰を に受けて、その油断を、突かれたためであった。あの苦杯こそ、忘られようか。恨みは、骨髄こつずい にきざまれている。── それらのことを、きっぱりと書いて、お答えとなされたがよい」
「だが、中将どのの御一命は、どうするぞ」
「それこそ、見え透いた院の弄策ろうさく 。生捕りの身の重衡どのに、自由はない。強いて筆をとらせたものと思わるる。重衡どのとて、本心から、わが一命と、一門の運命とを、換え事せよと、申さるるはずはない」
「中将どの自身は、お覚悟はあっても、母の二位どののお心は、どうあろう。ほかの子にもまして、重衡よ重衡よと、幼少から可愛がられていた二位どのでもおわせば・・・・」
すると、その二位ノ尼が、
内大臣おおい殿との (宗盛) 。一門の大事を議するときに、いちいち尼への斟酌しんしゃく はいりませぬ。おもとは、平家の総領、三軍の総大将、あたりの気色ばかり見て、ものを仰せていては、たれが、最後の指図をしましょうぞ」
と、叱った。
そういう二位どのの姿は何か化身けしん めいて恐いような冷たさだった。亡夫の遺志だけを持って、自身の母性も老いも しかくしているふうに見える。
もっとも、彼女にとって最愛な子の重衡を、助けたい思いは、どれほどあっても、ここにいる知盛も、教盛も、今度の合戦では、みなわが子の討死に会っていた。わけて経盛などは、長男経正、次男経俊、三男敦盛の三人までを一時に失って、よわい 六十の孤父の影を、黙然と、この場においているのである。
それらの一族の手前に対しても、尼のみが、重衡の境遇に泣いて、その救出を口に出せなかったのは、いうまでもなかろう。またかりに、ここの人びとが同意したとしても、果たして、屋島陣営の将士すべてが、それに同調するか否かも、疑問である。わるくすれば、たちどころに味方割れを生じ、紛争と狂激の果て、神器そのものすら、どうなることかわかるまい。
何にしても今は、平常の分別とか心理に、当てはめてみることはとても不可能なほど、大きな傷魂しょうこん を抱いて、敗北という現実の惨を、眼の前においていた屋島平家であったのだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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